座右の銘

笑門来福

なぜこの仕事をするか

お豆腐屋さんをサポートすることで沖縄県経済に貢献し、活動の発信を通じて子どもたちが夢を実現できるようなロールモデルになるため

わたしの履歴書

1999年、沖縄県生まれ。

中学生時代に両親の離婚がきっかけで相対的貧困や子どもの貧困問題に関心を持つようになった。子どもの貧困問題に教育面からアプローチしたいと考え、教員を志すように。

高校時代、留学に行くための費用をアルバイト代でまかなったり、希望していた私立大学への学費が工面できなかったりという経験から生まれ育った環境によって得られる機会に差があることに疑問を感じ、沖縄県の国立大学に進学し子どもの貧困問題について専門的に学んだ。沖縄県の経済について学ぶなかで、現在の第三次産業のみに偏った経済構造を変えるべきなのではないかと考えるようになった。

大学3年次の秋、教員採用試験を控える中で自分自身が子どもたちに教えられることがないのではないかと感じ、新しい知識を身につけるためビジネスコンテストに参加。
「食の社会問題を解決する」というテーマのもと、現在取り組んでいるおからのロス問題に出会った。お豆腐屋さんがおからの処理で本当に困っていることを知り、困っている目の前の人のために何かできないかと活動を開始した。
ある日、「もう経済的に苦しすぎて、自分たちの代でお店を畳もうと思っている」というお豆腐屋さんに出会い、この問題を知ってしまったからには、今、自分がこの問題に立ち向かわなければならない、そしてお豆腐屋さんを支え第二次産業を盛り上げることでずっと問題に感じていた沖縄県の第三次産業に偏った経済構造を変えられるのではないかと考えるようになった。

そんな中迎えた教育実習、ずっとなりたかった教員という道と今使命感に駆られているお豆腐屋さんのためにおからの問題を解決するという道の間で、私は2週間揺れ動いていた。実習の最終日、生徒全員の前で将来の夢について話す時間があった。
本来ならばそこでは教員になることへの意気込みを述べるべきだが、私は2つの道で揺れていることを正直に話した。
その時に生徒に「先生が今一番やりたいことをやってほしい!」「困っている人を助けたい気持ちがすごく素敵」と背中を押してもらい、教育面でのアプローチ以外でも子どもたちに希望を与えることができるのだと感じて、起業を決意した。

それからは沖縄県の経済のため、そして目の前のお豆腐屋さんのためにOkaraokaraというチーム名で活動を開始、おからでできた食べられるスプーンやおからのミートフリータコライスを企画・販売し、メディアなどでおからのロス問題について声を上げ続けた。

社会問題に関心のある仲間が増えるなかでもっと沢山の人と一緒に社会を良くしていきたいという想いが強くなり、ずっと憧れだったボーダレス・ジャパンへの入社を決意した。

私は何もできない未熟な人間だが、「誰かのため」なら120%以上の力が発揮できるという強みがある。この強みを活かしてお豆腐屋さんのために、沖縄県経済のために、自分と同じように生まれ育った環境で機会を奪われてしまうような子どもたちのために、これから社会起業家を目指していきたい。

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。