座右の銘

「浪漫の無い人生はもはや人生に非ず」

メッセージ

「途上国の貧しい人が自立できる商品だけを作る、そして販売量を増やす事にこだわり、一人でも多くの貧しい人たちの生活を変えていく。」これが私の目標です。 前職ではクライアントの倒産を目のあたりにし、「良い事をしている筈なのに継続できない」会社や組織がとても多い事、思いだけがあっても収益が出なければ事業を継続することはできない事を痛感しました。その経験から、私は売れる商品作りと販売に拘っています。 ボーダレス・ジャパンには起業家の思いを商品に、そして販売力に変えるプロフェッショナルが数多く在籍しています。 社会起業家をめざしたい方は是非ボーダレス・ジャパンの門を叩いて欲しいと思います。

わたしの履歴書

牛房義貴
1980年8月、福岡県筑紫野市に、牛房家の次男として生まれました。父は会社員、母は自営のピアノ教師でした。
妊娠の影響でホルモンバランスが変わった母は何故か豚骨ラーメンばかり食べていて、母から栄養を摂取し過ぎた私は、母のお腹で非常に大きく育ち、緊急帝王切開で生まれたらしいです。

母の食い気は私にも遺伝し、生まれた時から指を吸い、看護婦さんがその指を離したら泣きわめく、
そして多くの誰よりもミルクを飲む食いしん坊でした。そしてその食い気は33年たった今も継続しています。

3歳になり、筑紫野市の筑紫野中央幼稚園に入園。身体も大きくて当時は足が速かった私は女の子からモテていたらしいです。
私の人生のゴールデンエイジは恐らく幼稚園時代。

小学校は地元の二日市小学校に入学。片道2km弱の距離を毎日通学。友達とドッジボールをしたいがために、毎朝8時前に登校。帰りはよせばいいのに田んぼの中を通って帰ってました。たまに田んぼの中に落ちて、服や靴を汚して母に怒られていました。田舎で育ったためか、田園風景や自然をこよなく愛する子供として育ちました。
勉強で好きな科目は社会。小学校5年生から塾に行きだしても、一番成績が良かった科目は社会。他の科目は偏差値50程度でしたが、社会だけは偏差値60以上ありました。その影響で日本の事や世界の事に興味を持ち始めました。

中学は、せっかく勉強したからと言って受験をさせてもらった西南学院中学校に入学。ちなみに、ボーダレス・ジャパンで一緒に働く岩城さんとは中学からの付き合いで、2年と3年で同じクラスでした。
部活は剣道部に所属。体力的にはきつかったですが、充実をしてました。その部活で激ヤセを経験。夏の練習がきつくて体重が一ヶ月で10キロ落ちました。痩せていたあの頃が懐かしい。
好きな科目はやはり社会で、中学から新聞の国際欄を読むようになり、今でも戦争をしている国があるんだな、と世界の問題に興味を持ち始めました。

高校は内部進学で西南学院高等学校に入学。現在の社長の田口とは1年と3年の時のクラスメイトです。高校では部活には入らず、校則で禁止されていましたが、アルバイトをしていました。某有名ハンバーガーチェーンに入り、ひたすらマニュアルに従ってハンバーガーを作る日々。個性や人格も関係なく、誰もが同じ事をする自分の存在意義はなんだろうと考えるようになり、この経験を通して、自分らしい事・やりたい事をやろうという自我に目覚めました。 高校時代も好きな科目は世界史でした。マニアックな用語ばかりを覚え、本題はさっぱりという勉強スタイルだったため、成績はさっぱりでした。

そういう理由で見事に大学受験に失敗。浪人をすることに。 どうせ勉強するなら、という事で、福岡で一番厳しいと言われた北九州予備校に入りました。 朝8時から夜10時まで勉強しました。夕方5時で帰ろうとするなら、「来年もよろしく」と嫌味を言われ、なにくそ精神で勉強をしていました。ちなみに予備校の校訓は「努力は実る」ボーダレス・ジャパンで1位のメンタルタフネスを誇ると自認していますが、それは予備校時代に培われたものと言って過言ではありません。

その甲斐あって、19歳の春、早稲田大学社会科学部に合格。入学しました。 早稲田大学の学生らしく、大学の授業にはほとんど行かず、友人たちと昼から酒を飲んだり、夜通し議論をしたりなど、楽しい学生生活を行っていました。楽しい学生生活を謳歌し過ぎて大学5年生に進級を果たしたのですが、それも良い思い出です。大学に入っても会長の田口とは親交があり、約半年間ルームシェアをしたり(僕がいない時に当時の彼女・今の奥さんを連れ込んだり)、同じアルバイトをしたりなど、引き続き交流がありました。大学にはあまり行かなかったのですが、政治系サークルに入っていた影響で、読書は良くしていました。一番印象に残っている本はサムエル・ハンチントンの『文明の衝突』。 大学3年から入るゼミは国際経済学を選択。といっても、経済学には興味は無く、教授がベトナム人だから異文化コミュニケーションができるから楽しそうだなという事が理由です。ゼミ授業の一環でベトナムに行き、ベトナムの経済発展に携わるJBICの方の話を聞かせて頂いたり、ODAの成果物を見せて頂いたりしました。凄い仕事だなと感動したと同時に、僕の中で何かが違うとも感じていました。インフラ開発で利便性や生産性が高まりますが、自然や風土や、そしてアイデンティティを失っているのではないかと。そういう思いをもちました。

24歳の春、金融系のベンチャーのフィデックに入社。内定後からアルバイトをさせて頂きました。内定時は未上場、入社前に東証マザーズ上場、上場から一年後に東証一部に市場変更をし、会社のステップアップとはどのようなものかを体験できたことは大きな財産でした。 会社は好きでしたが、金融系だけあって正確性が追求される業務に馴染めず、また上場に伴い多くの規約が増え、自由度が失われていると感じはじめ、何かが違うと転職を考えるようになりました。

その際、田口が会社を立ち上げるという事でそれに参画をさせてもらおうと、半ば強引に参画。その時、25歳。当時は有限会社ボーダーレス・ジャパンという社名でしたが、今のボーダレス・ジャパンとの出会いです。参画の条件は自分の給料は自分で稼ぐこと。当時はミステリーショッパーの仕事を行っていましたが、それだけでは足りず、アルバイトをしていました。

今はもう無くなってしまったのですが、1年半ほど株式会社アットパスという会社でインターネットの技術サポートに関するコールセンター業務につきました。仕事の中でアットパス社の小池社長と話す機会があり、尊敬している起業家の話になりました。
THE BODY SHOPという会社があること、アニータロディックという起業家の事を物凄く熱を込めて話してくれました。例えば、環境に配慮してシャンプー量り売りを始めた事、貧困に悩む途上国の農民の手作りの原材料を使って商品を製造している事です。そして小池さんが日本で初めてTHE BODY SHOPのフランチャイズを始めて失敗した事なのです。この話を聞いて社会起業家の事を知り、THE BODY SHOPのようなビジネスをしたいと思いようになりました。 今思うと、これが僕がAMOMAというソーシャルビジネスに参画している理由の一つかもしれません。

その後、約2年、株式会社ボーダレス・ジャパンで不動産仲介事業にて働いた後、一度ボーダレス・ジャパンを退社します。

29歳の頃、インターネット系の広告代理店に入社。株式会社フリーセルではインターネット広告やアクセス解析といった知識面はもちろん、目標達成の喜びと未達の際の悔しさ、営業の仕方や資料の作り方など、ビジネスマンに必要なスキルを学ばせて頂きました。この時に培った知識やスキルは今でも役に立っています。 フリーセルにて、ポジションも順調に上がり、そのまま務勤めようかとも思いましたが、心の中ではボーダレス・ジャパンでの再挑戦という思いがずっとありました。 実際に戻る話が来て、戻る事を決断した私。でも嬉しかった事はフリーセルの上司も含めたメンバーが、お前が必要だという理由で引き留めようとしてくれた事。良い経験をさせて頂いてフリーセルには本当に感謝をしています。

その後、株式会社ボーダレス・ジャパンに再入社し、(唯一の出戻り!)AMOMAに従事。

AMOMAではインターネット広告の運用を中心としたWEBマーケティング、品質管理、商品開発などフロントエンドもバックエンドもやらせてもらいました。

特に面白かったことがインターネット広告の運用で、広告費を月間100万円から1.000万円にまで運用額を伸ばせたことが一番嬉しいことでした。商材の相性などもあるかと思いますが、黒字を出した上で、使える広告費の伸びが事業の伸びだなという事を学ばせていただきました。

AMOMAで約3年半在籍し、2014年11月にメディア事業部であるBORDERLESS PEOPLE事業部に移籍。

現在に至ります。

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。