座右の銘

人生とは、何を得るかではなく、何を残すかにある。

なぜこの仕事をするか

この世界には誰にも気づかれず誰も解決をしようとしない問題を人知れず抱え、苦しんでいる人が多くいます。 その一つ一つの問題を自分自身だけで解決することは、控え目に言ってもほぼ不可能です。 だからこそ僕は、自分自身が見つけた難民問題を人生を懸けて解決します。そしてボーダレスの生態系を通して一つ一つの問題を解決し「誰の痛みも無視されない社会」を創ります。

わたしの履歴書

1997年8月1日、夏のど真ん中に末っ子として生を受け、自然豊かな東京の西田舎で伸び伸びと育ちました。 幼稚園で通った体操教室のおかげで運動神経だけは良く、小学生の自分にとってベッドとは寝るためのものではなく、跳ねるためのものでした。 一度やると決めたら達成するまで続けないと気持ちが悪くなる性格のせいで、高い場所から何度も飛び降りていましたが不思議と骨折は一度もしたことがないです。 本当は野球がやりたかった中学ではサッカー部に。この世の終わりが来ても坊主にするのが嫌だったからです。 サッカー部ではベンチを温めるというポジションを三年間の殆どの間務め上げました。万年ベンチでしたが、体力だけを買われてサイドバックで準レギュラーになり、コートを縦横無尽に走っていました(ボールは置き去りです)。 マラソン大会で唯一勝てなかった、同じくサッカー部のゆうやくんに勝つべく高校からは陸上部に。 高校三年間は走った記憶しかありません、三年間で地球一周半分ぐらい走りました。当時ケニア人ランナーを崇拝していた自分は裸足で学校に通って、先生に何度も注意を受けていた"ストイック問題児"でした。無論、髪の毛などという空気抵抗を生むものは自分の手で剃り上げました。 大学は「箱根駅伝山の5区を走る」ために臙脂色の学校で駅伝部に入部しました。朝4時に起きて寮のトイレを掃除する毎日は問題なかったですが、0から10まで管理されて走るということに耐えられなかった自分は半年で駅伝部を退部しました。 3年ちょっと追いかけていた夢を捨てるのは決して楽なことではありませんでした。退部してから1ヶ月はドライブをして気を紛らわすだけの毎日。(当時のインスピレーションはワイルドスピードです。) そんな毎日に嫌気がさし、「自分自身の人生に向き合おう」と一転、「マレーシアの無国籍の子どもたちに教育支援をする」学生団体に参加しました。実際にマレーシアに渡航し「"不法移民"という扱いを受け、学校にも行けず警察を恐れてひっそりと生きる子どもたち」に出逢いました。19歳という多感な時期だったのもあり、目の前の子どもたちに対して何もできない自分の無力さから、分け目もふらず泣きじゃくりました。 「これは自分が人生をかけて挑まなきゃいけない闘いだ」と夢だけを追いかけていた自分が志を見つけた瞬間でした。 それからは、大学を休学して単身マレーシアに渡り難民の集落で先生になったり、「ソーシャルビジネスだ!」とボーダレスアカデミーに飛び込んだり、母親を雇用し子どもを学校に通わせるためにマレーシアで餅屋を開いたり。 志を見つけた瞬間から今まで、「子どもたちが"不法移民"と扱われ学校にも行けず、警察を恐れて毎日を生きなければいけない状況を変える為」に行動をしてきました。 現在はRISEにて修行中。 ボーダレスイズムを自分に染み込ませ、マレーシアにおける難民問題だけでなく世界中の難民問題を解決するビジネスを次々に生み出せる、「連続社会起業家」となれるように経営者としても一人の人間としても、亀の如く成長していきたいと思います。

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。