座右の銘

その人の後ろの「五十人」を意識する

なぜこの仕事をするか

自分の人生を、自分が考え得る最もインパクトのある方法で「何かの役に立てたい」。それが私の生きるモチベーションだから、農業通して日本の社会課題に取り組む「みらい畑」を生涯の仕事に選びました。

わたしの履歴書

1990年10月3日兵庫県生まれ。 注意散漫でよく物にぶつかり物を壊し、両親からデストロイヤー(破壊者)と呼ばれ育ちました。小学校2年生にしてなぜかスリルを求めて目をつぶりながら自転車で坂道を下り、壁に激突して以来直径3cmの傷が鼻にあります。

小学校3年生から5年生までの3年間を父の仕事の都合でインドはニューデリーで過ごしました。 インドと日本の文化の違いには少し驚いたけれど、衝撃というほどではありませんでした。 しかし、同じ年頃の子どもが裸同然の格好で自分にお金を求めてくること・腕や足のない人が当たり前のように道端で暮らしている、といった人々の生活水準の違いには強い衝撃を受けました。なぜ生まれた国が違うだけでここまで自分と違う生活をしている人たちがいるのか、そしてなぜ自分は何もせずに恵まれた生活の中で生きているのか。その人生の違いを受け入れることができないまま成長していきました。

帰国してからは発展途上国の女性や子どもの力になれる機関の存在を知り、UNICEFに入ることだけを考えて生きてきました。仕事をするには体力と知識が必要だと考え、小学校6年生から高校の終わりまで陸上部で走り続け、大学では国際法を学び、国際機関と国際法の第2言語であるフランス語を学ぶためにフランスのストラスブールに留学をしました。

そんな中、日本で2011年3月11日に東日本大震災が起こり、考え方が変わる転機を迎えました。阪神淡路大震災が起きた時、祖父母の家は被災して全壊したけれど、当時4才で名古屋に住んでいた私はその時も何もできませんでした。今なら何かできるかもしれないと考え、被災地支援団体に所属し、活動を行いました。

東日本大震災が発生した時からつい最近まで、常にこう感じていました。「なぜ自分だけ生き残ってしまったのか。」それはインドで感じた「なぜ自分だけ恵まれて生きているのか。」に似ている部分がありました。その瞬間生きている場所がほんの少し違っただけで、人の生死が変わる。「生きている」ということに対して言葉にしがたい罪悪感がありました。

しかし、当事者の気持ちになりたくてインドを再び訪れたり、被災地支援の活動を通して様々な人々と出会ってその想いや人間の強さに触れたり、被災地を目の当たりにする中でその捉え方はとても自己中心的で間違っていると感じ始めました。いくらあがいても辛い経験をした人になれるわけではなく、自分は自分の人生を生きることしかできない。置かれてきた環境を100%受け入れ、そのうえで問題を抱える人のために今の自分に何ができるのか・それは本当に心から自分がしたいことなのか、その応えがイエスでない限りやる資格はない、と思いもう一度考え直した時に出た答えは、人生をかけてイエスでした。

そして発展途上国の人々だけが問題を抱えるわけではなく、先進国でも、笑顔で過ごしているように見える友人でも、様々な問題を抱えているということに気づき、国という枠組みで考えるのではなく、「人」で考えるようになりました。

その決意は固まったものの、じゃあ具体的に何がしたいの?という答えは見つけようとしていませんでした。UNICEFに行くために大学院進学を考えていましたが、早く「何か」したいと思い悩んでいたそんな矢先にボーダレスジャパンと出会い、ソーシャルビジネスで社会問題を解決するという道を知りました。そのスピード感とメンバーの考え方に強く共感し、面接を受けメンバーになることが出来ました。しかし、田口会長鈴木副会長にこれまでの漠然とした中途半端な自分の考え方への指摘を受け、ものすごく悔しかった反面ものすごく反省しました。

それ以降、今までの経験から得た自分の想いの表現の仕方として何がしたいのか、そしてそれを社会問題解決のビジネスとして形にするためにはどうしたら良いのかを一から考えました。

今は具体的に、どうしてもやりたいことがあります。ボーダレス・ジャパンでそれを実現させるため、日々勉強しつつ前に進んでいきたいと想っています!

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。