座右の銘

Everyone’s a star and deserves the right to twinkle

なぜこの仕事をするか

一生懸命勉強をして、将来の夢もちゃんと持つ子ども達が、バックグラウンドに関係なく、その夢を実現できる世の中にしたいと考えています。

わたしの履歴書

1994年1月生まれ。2人兄弟の長男。

幼い頃からじいちゃん、ばあちゃんっ子でいつも2人の後ろを追いかけていたそうです。両親は共働きだった為、私は保育園から帰るときによくじいちゃんと一緒に公園に寄り、ブランコやシーソーで遊んでいました。その後お花を摘んで、家にいるばあちゃんに手渡していたそうです。また、少し早いですが、『初恋』の相手は保育園の同級生の子で、相手の親に「将来、この子と結婚する」と断言していたらしいです。

小学校に上がると友達も多くなり、休み時間によく校庭へ行き、ドッチボールをするような活発な子でした。また祖父が野球ファンだった影響で、高学年になると地域の野球教室へ通い、泥んこになりながら日々野球をしていました。

中学校、高校へ行っても大して変わらず、野球部に入り、日々ボールを追いかけていました。それとは対照的に学業が疎かになり、成績が後ろから数える方が早いほどでした。そのため大学受験に間に合うはずもなく、試験は全て落ち、しょうがなく浪人を決めました。

1年遅れてなんとか早稲田大学に入ることが出来ましたが、興味のある講義もほとんどなく全く勉強をしませんでした。そんな中、『僕たちは世界を変えることができない』という映画を見て、ボランティアってカッコイイという憧れを抱き、それと同時に東南アジアの国際開発に興味を持ち始めました。

そして大学二年の春、マレーシアで教育支援のボランティアをしていた学内の子と出会い、私がやりたかった事はこれだ!と思って、そのボランティア団体へ参加しました。

そしてその夏、マレーシアへ訪れ、フィリピンでの内戦やそれに伴う貧困からマレーシアへ逃れてきたフィリピン人とその子ども達に出会いました。彼らはマレーシア人から不法移民として扱われ、人目を逃れるようにマングローブの中で生活していました。そしてその子ども達は公立の学校に通う事が出来ず、NPO団体などのボランティアの先生に勉強を教わっていました。

そんな現実を知り、この現状をどうしても変えたい!生き延びるために他国に渡った人、またその子ども達が「他国でも自分らしく生きられる社会」を創りたい!そして今の私に出来る事はなんだ。そう考えた結果、大学を1年休学し、ボランティアの先生として子供達に勉強を教えました。

一年間先生として子供に勉強を教えたはいいものの、一時的な支援では彼らの生活を良くすることはできない。そう思い悩んでいた時に『ソーシャルビジネス』という言葉を知り、ボーダレスジャパンを知りました。そして現在は、ボーダレスジャパンで、人生を懸けて『あの子ども達が自分の夢を実現できる社会』を創ると決め、日々奮闘しています。

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。