座右の銘
自然体
なぜこの仕事をするか
日本は戦後、幾つかの高度成長期により物質的に豊かになりました。とりわけ暮らしたり、働いたりしている都市は工業化が進み、スクラップ&ビルドの精神の如く急速に拡大したのは周知の事実。やがて成熟した社会はハードを過剰に生産するようになりました。その弊害として、空き家問題や廃棄物問題が深刻な状況に。建物が余りそれを造る材料も余る、そして新品のまま廃棄される資材も。そういった建築業界の資源ロス問題を解決して、環境や人々の暮らしを良くする仕組みを創造したいと思っています。
わたしの履歴書
【幼少時代 / 車輪とレールの境界】
千葉県で生を受け、すぐに東京に移り4歳まで世田谷区で暮らすことに。一人遊びがかなり得意な方で、幼稚園では広い廊下でひとり、枕ぐらいの大きさの積み木で家や船を創る日々。帰りには工作のお土産を欠かさず、家では大好きな電車のおもちゃをちゃぶ台にきれいに並べて、ひたすら眺めるという遊びをよくやっていたとの母からの情報。おぼろげな記憶ですが、車輪とレールの境界に何かあるような気がして覗き込んでいたのかもしれません。いずれにしても彼にとってはのびのびと自由に育てられた幼少期でした。
【小学校時代 / ゴールデンエイジ】
入学前に千葉県へ。相変わらず一人遊びは得意でしたが、友達がいなかったわけではありません。むしろ多い方で、小学校6年生では学級委員長としてクラスを引っ張る存在に。陸上部や合唱部、絵や俳句などやることなすこと評価され、おそらく人生で一番楽しい時期だったと思います。当時背の順で前から2番目のかなり小粒で、卒業アルバムをみると、背の高い保護者のような友達に囲まれてみんなに優しくされてきたのが伝わります。(みんな優しくしてくれてありがとう!)ですが、決して優良児だったわけではなく、三者面談の際、担任の先生が開口一番「こんなに毎日叱っている生徒はいません!」との事。(先生―!!!)本人はというとほぼ自覚なし。一番たちの悪いやつです。お子さんをお持ちの方はご存じとだと思いますが、子供のやりたいことの大半は、やってほしくないこと。後に続く少年時代も同様に、周りの大人にしこたま怒られ、愛され、涙し、反省の繰り返し。それにより、どんなことが人を悲しませるのか又は喜ぶのか身をもって体験し、それらを頭ではなく体で感じることができる今があるのはこのおかげ。怒ってくれた皆さん、本当に有難う御座います。おそらく誰よりも子供らしい子供であったので、周りが手を焼いてくれたような気がします。
【中学校時代 / 運命の出会いと後悔】
この時代のトピックスを一つ上げると、それは人生初のメンターができたこと。もちろん当時メンターという言葉は知りませんでしたが、人生観が確実に変わったことは間違いありません。その人はサッカー部の顧問で自分はキャプテンという関係でした。その人がメンターたる色々なエピソードがありますが、一言で表すと、こんなに面白い大人がいるのか!と、そう思わせてくれる方でした。早く大人になりたいとも思わせてくれる素晴らしい方でした。実は進学後、自らの未熟さゆえに守れない約束をしてしまい、一番尊敬していたはずのメンターを裏切ってしまいました。直接謝罪した際に、「これで終わりな」と許しの握手をしてくれたのですが、うまく咀嚼できず壁を感じてしまい、その後長い間連絡できず、今でも後悔しています。
【高校時代 / 逃げ道を探して】
本人にとっては暗黒時代の幕開けです。友達はいたものの満たされない日々に未熟な憤りを感じていました。勉強もろくにせずサッカー部をやめ、ついには高校もやめようとしていました。悪い意味でここでも怒られる才能を発揮して、登校すれば朝礼後、職員室に連行。特になにかをしているわけでもなく怒られる。(今思うと何もしてなさ過ぎたから怒られていたわけですが)幸いなことにどの時代にも良き理解者がいてくれて、励まされ、高校を卒業しようと決意することができました。ところがここで問題発生です。それまで大学に進学するのだろうなという、ふわっとした考えで生きてきたおかげで、おやおや?学力足りなすぎないか?という当たり前すぎる現実を認識しました。それに親とは進学費用は自分で工面しなさいという約束になっていました。アルバイトで100万円程度ためていましたが、学費は安くて400万以上かかると知り、行くとしても奨学金という借金をしなければならない。何かやりたいことがあるわけではなく、ましてや今までろくに勉強しなかった自分に数百万という大金を投資する価値があるのか、モラトリアムをお金で買うのかという問題に対して下した決断は、大学進学をする資格なしという自己判断。学生という身分が終わったら家を出るという約束もしていましたが、何か一芸に秀でたいという思いはあったので、親を説得して家に住まわせてもらいながら、奨学金で専門学校に進む道を選びました。
専門学校時代、建築系の学校に進学しました。いわゆる建築家というものに憧れていた訳でもなく、テレビで見たサグラダファミリアの荘厳な佇まいに感銘を受けて選んだわけでもありません。シンプルに消去法でした。基本的になにもやりたくはなかったのですが、三つ子の魂100までというように、幼少期に取り組んでいた創作についてはだけは違和感がなく、衣食住の住である建築分野なら将来何かにつながるだろう思い選びました。結果はというと、それがまさかの大正解で、勉強が初めて楽しく感じて、狂ったように学びいつの間にか成績はトップ。そのあとは自分との戦いでした。メンターに叩き込まれた、考えうる最大のストイックな取り組み方を実践し、就職してから資格に逃げるのはダサいとの考えのもと、アルバイトと並行して国家資格や周辺資格を14個取得し、就職してからは実務経験が必要な一級建築士のみという状況を創り上げました。そんな様子を見て家族や周囲が、訓平が突然変異を起こしたと騒いでいたのを覚えています。
【就職活動 / 正面突破】
満を持して就職活動。さまざま武器を引っ提げて挑み、それらの実績等が評価され、第一志望である東証一部上場企業ゼネコン設計部に内定をもらいました。実は当初の採用は営業職の採用でした。内定者研修の時に面倒見が良い人事の方に、「設計部に入りたいのになぜ専門学生はエントリーできないのですか」と内定もらってからの直談判。そこまで言うなら試験受けてみる?という話になって、内定まで4回、内定をもらってから4回、計8回の、面接・筆記・製図・プレゼン等をクリアして晴れて設計部に入所しました。
【社会人時代 / ルーキー、成長。そして挫折】
設計部では、意匠設計者として激しく忙しい職場で働いていました。そしてここでもまた怒られる日々を送っていました。同じ空間に同期は3人いたのになぜだか自分だけ怒られる。今思うと理不尽というやつでしょうか。ですが、人よりかなり怒られてきた経験から、本当に自分に非があるか否かは常に冷静に見ていました。それが面白くなかったかどうかは分かりませんが、めきめきと実績を上げていっていると、ある日突然人事異動が通達されました。いわゆる左遷という類の通達でした。それにより構造設計という高度なエンジニアリング能力が求められる全く別の世界で働くことになったのです。(補足:意匠設計と構造設計は全く畑違いで、双方を移動する人は極稀です。当然学生の時に学ぶことも大きく異なります)幸運にも異動先の上司・先輩に恵まれ温かいご指導の下、スポンジのように技術を習得することができ数年で表彰されるまで仕事が出来るようになりました。また一級建築士試験も初受験でストレート合格。その後はデザインとエンジニアリング双方の見識があるということで周囲にとって重宝される存在となりました。また社内勉強会にも積極的に参加して、受講者だったのがいつの間にか講師側になっていたりすることも。さらにそれらが周囲にいい影響があると認めて頂き、就業時間中にも勉強することが許されていました。このように順風満帆に見える設計人生でしたが、次第に陰りが覆い始めます。建築不動産業界を知れば知るほど、自分たちの仕事の矛盾、業界の闇が見えるようになりました。人口減少が叫ばれて久しい世の中で、直近の利回りを目的とした投機的マンション建設。建てても人が入らない。さらには数年後壊す予定の建物の建設。建物を造るということは、多くの関係者の多大の苦労と、少なくない環境負荷をかけて営まれる。素直に歓迎できないビジネス構造。それに自分は加担している。会社のビジョンにも疑問を感じる。そんな違和感を抱えながら徹夜を重ね激しく働いていたら、いつか身体を壊してしまいました。
【転職 / 根底にあるもの】
その後、結局転職することになるのですが、それまでの間自分と向き合った結果、やはり設計デザインにやりがいを感じていたので、店舗デザインを得意とするデザイン事務所に入所しました。そこでは、営業から設計、積算・現場監理とアフターフォローまで担当していた為、すべての工程を把握することが出来ました。今までの経験が生かされ、自身の空間デザインでお客様に喜んで頂き、大いにやりがいを感じていました。しかし、ここにもまた違和感がありました。それは工事後、余った新品の建築資材を廃棄していること。効率を優先すると捨てたほうが良いという現実。まだ使えるはずなのに、というやるせない思い。この現象は一現場で起こっているわけではなく、大なり小なりほぼすべての建設現場で起きている。年間何万トンもったいないことになっているのか。前職から違和感があった、経済優先のスクラップ&ビルドの世界観がどうしても承服できませんでした。
【そしてボーダレスへ / 想いと行動の一致】
周囲にその想いを語っていると、流れながれのうちにボーダレスにたどり着き、建築資材ロス問題を解決するために、一社会起業家として参画させて頂く運びとなりました。まずは資材ロス削減についての対策を。少々飛躍しますが、将来的には資源循環の文化を創り、ものを買わなくても豊かに暮らせるコミュニティの拠点を創る。そんな素敵な未来を実現することを目指しています。
会社名は、HUB & STOCK
ストック(資源)をつなぐ、ハブのような存在となりたい。
そんな願いが込められています。



