座右の銘
やらない後悔より、やる後悔
なぜこの仕事をするか
これしか方法がないと思ったから、逆にこれなら社会をよりよくできると感じたから。
わたしの履歴書
私は1999年に埼玉県で、子育てに熱心な母と世界一放任な父、そして2個上のケンカはするけど仲良しの姉のもとに生まれました。
小さいころから父と母が好きな東南アジアによく旅行に連れていってくれました。東南アジアは人も景色も食べ物も何もかも違っていてキラキラしていました。
今思うと私が日本とはまた違う、海外の価値観や文化の違いに魅了されていったのはこれがきっかけだったのかもしれません。
それと同時に、自分と同じ年くらいの子から物乞いを受けたり、ホテルと町が大きな壁で分断されていたりと、子どもながらに「自分の生活は当たり前ではないのかもしれない」と気づかされました。
今でもこのような経験をさせてくれた両親には感謝しています。
同時期にテレビで放送していた「もしも世界が100人の村だったら」という番組も同じくらい私に衝撃を与えました。
姉と私のような姉妹が生計を立てるために、1日中ごみ山でお金になるものを漁っていました。
その当時は「この子たちのために何かをしたい」だなんて発想はまるでなく、「どうしてこんなにも違うのだろう」とただただ疑問を抱いていました。
中学・高校は「マンドリン部」という弦楽器の部活に熱中した6年間でした。私たちの代はなんと全国1位になりましたが、それよりも一生付き合っていける仲間を見つけられたことの方が大きな収穫だったと感じます!
さらに尊敬できる先生方のおかげで私も英語を話して、世界で活躍できる人間になりたいと、どんどん夢が膨らんでいきました!
中学・高校の6年間を経て「私は周りの人に恵まれている」と強く実感し、それにも関わらず自分が何も返せない状況にふがいなく感じていました。
このころから社会に貢献できる人間になりたいという思いが強くなり、大学受験が嫌で嫌でしょうがなくなった時に、「青年海外協力隊」に申し込もうとしていました。
とにかく今海外の人のために何かするにはこれしかないと考えていましたが、姉に「今行って何ができるの?」と言われ、我に返りました。そして自分が何ができるのか見つけるために、大学に行くことを決めました。
大学に入学してからの4年間は「やってみないとわからない」を常に更新し続けてきた気がします。
全く英語も話せないのに、オーストラリアの公立小学校の先生をやってみたり、アメリカの国立公園で山火事から1週間の避難生活を経験したり、カンボジアでボランティアビジネスの実態を目の当たりにしたり‥と「経験は誰にも奪われない」という信念からとにかくその時に興味のあることに突っ走っていきました。
大学3年時には国連ユースボランティアとしてカザフスタンに5か月間渡航しました。憧れの国連での経験は素晴らしいものでしたが、「自分ができることはここなのか」「自分がやりたいことは何なのか」悶々と悩む日々が続きました。
帰国後就職活動が本格化し、企業に好かれるための履歴書を作成し、とにかく海外で働くことができそうな会社にアプローチをしまくりました。
圧倒的な違和感を抱きながら、就職活動をしている中である企業の面接官の方に「海外でいろいろやってきたんだね。でも日本には興味はないの?」と質問されました。
質問が自分の中で強く残り、1から自己分析をし直しました。
その結果「自分は運がよかったから家族に恵まれて、ここまで来れたけど、そうではない人はどうしたらよいのだろう」という自分の真の疑問に気づくことができました。
「だったら自分がどんな人でも第三者からサポートを受けられる仕組みを作れればいいのでは、いや作りたい!」と思い立ちました。
ボーダレスに入社することを誰にも言わずに、他の企業の就職活動を全てやめてしまったので、1か月間お母さんに口を聞いてもらえなかったことは今ではいい思い出ですが(笑)
今まで自分がしてきてもらったことを、ソーシャルビジネスという形で社会に恩返ししていきたいです!!