座右の銘

桜梅桃李

メッセージ

私にとっての世界とは、これまで出逢えたすべての人でした。世界中で暮らすバックグラウンド様々な大切な人たちが、抱える課題をチャンスに変え、もっともっと笑顔で過ごすために、私には一体何ができるだろう?国際協力の方法は、ボランティア、寄付や募金、企業CSR、国際機関への就職などたくさんあります。「おはよう!」と笑いかけることでも十分、今となりにいる人に笑顔を広げることはできます。
そんな中で私の場合は、ビジネスの力とアイデアを持って、人を巻き込みながら、根本的な課題の解決を行うことに、魅力と可能性を感じました。バックグラウンドや環境に左右されず、だれもが可能性に挑戦できる社会の実現のために、日々取り組んでいきます。

わたしの履歴書

1991年6月、兵庫県宝塚市生まれ。2人姉妹の次女として誕生しました。予定日ぴったりに産まれる几帳面さを見せつつ、末っ子特有のマイペースさに磨きをかけ、ここまできてしまいました。
毎晩近くに住む祖父母を交え、家族6人で食卓を囲むサザエさんのようなわが家。寂しさを感じる隙さえなかったため、両親共働き家庭だったことに気が付いたのは、割と最近のことでした。

幼少期は、言葉を話し始める前から、映画を見てしくしく涙する、感受性の高い子だったようです。だんだんと口が達者になるにつれて、なんで?なんで?星人に成長し、おかげで発想転換力が鍛えられ、ポジティブ変換が得意になりました。一方で、親しい人の前以外では人見知りで、シャイな性格でした。

幼稚園から高校まで1学年50人のカトリックスクールで育ち、海外の姉妹校との交流や、老人ホーム・特別支援養護施設への訪問、ホームレス支援などの機会が頻繁にありました。幼いころから、外国や自分と異なる人の存在が身近だったため、私の中でそれぞれの違いは“個性”として映るようになりました。

人生で一番の転機は、フィリピンの貧困地域でホームステイした15歳の時です。

ホストシスターは、街灯の無い真っ暗な村で、雨水のお風呂で育ってきた、同じ年の少女。ギターと歌が得意な彼女は、弾き語りをしてくれた後、キラキラした笑顔で「私、歌手になりたいんだ!」と夢を話してくれました。直後、「でも、お家が貧しいから無理だなあ。」とぽつりと呟いた言葉と、悲しそうな顔が、帰国後も私の頭から離れることはありませんでした。

この出会いをきっかけに「生まれた環境や年齢、性別、社会から与えられた枠組みによって、可能性が制限されない社会をつくりたい」と、考え始めました。
大学進学後は、NPO団体の学生支部に所属し、途上国での家建設活動や、国内でフェアトレード商品の販売企画を行いました。このイベント開催を通じて、”ビジネスの持つ人を巻き込む力” に関心を持ち、ソーシャルビジネスの盛んなシアトルへ、インターンシップのため渡米しました。
いよいよ迎えた就職活動。当時の私は「どの国に住む、どんな問題を抱える人の世界を、どんな風に良くしたいのか」対象をたったひとつに絞り込むことが難しく感じ、ソーシャルビジネスではなく、人材紹介会社を選び、東京でコンサルタントとしてのキャリアを歩み始めました。

日々、企業と求職者に触れる中で「はたらく」とは、自己実現の場であり、自分を活かして社会をより良くすることなのだと、感じました。
それでは私自身は、「はたらく」を通じて、どんな世界をつくりたいの?どんな自分を実現したいの?・・・立ち返った時、ふと腹落ちした瞬間がありました。「違いを個性として生かせる十人十色な社会をつくりたい!」

たくさんのご縁を経て、各々が実現したい理想の社会にむかって、熱く、優しく、なにより楽しく、まっすぐに歩んでいる集団、ボーダレス・ジャパンに出会いました。現在は、ボーダレスハウスに所属し、偏見のない“本当の意味でボーダレスな社会の実現”にむけて、関西を盛り上げるべく日々取り組んでいます。
(と言っても、入居者さんはじめ素敵な出会いの連続で、わくわく感の方が大きい毎日です!)

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。