座右の銘

Carpe diem quam minimum credula postero
「明日のことはできるだけ信用せず、その日の花を摘め」

メッセージ

どのように選択し、どのように働くかは自分次第。ボーダレスには多くの選択肢があり、決断を迫られます。求められることも仕事の幅も一般企業では考えられないほど広く、『これも社内で行うんですか?』と声をあげてしまいます。企業理念から各事業や細かな行動にいたるまで一貫していて、非常に清々しい会社だと感じています。求められることも大きく尻込みすることは多々ありますが、より多くの問題を解決できるよう全速力で取り組んでいます。

わたしの履歴書

大塚祐子

1982年7月17日、福岡生まれ。

自分に自信がないことの現れなのか、生まれながらに笑顔という最大の防御を身につけていました。
いつでも笑顔過ぎて、笑うな!と怒られることも。
第一印象が非常に良すぎて、勝手にすごく良い人だと勘違いされますが、誰よりも気性が荒く喧嘩っ早いほうです。

幼少期は、母が保育士をしていた「高取保育園」に入園。
冬でも裸足でヤギと遊び、いつも土粘土を探し団子を作るのが好きでした。
「高取小学校」入学後、比較的大人しい性格だったのですが、4年生の時に変化が。
友人が苛められた際、かばったら苛められるという状況を変えたく母に相談し、
いじめっ子ボスに立ち向かい勝利をおさめ苛めサイクルが終焉を迎え、この頃から自分に自信を持ち始めました。
小学校5年生の時、毎朝夕ギターを弾いてくれる緒方先生に出会い歌の楽しさを教わり、歌うことが大好きになりました。
「高取中学校」入学後は、バレーボールに没頭し、帰宅後玄関でよく寝ていました。

高校は「中村学園高等学校」入学し、女子高なんて…と嫌々通っていましたが、いつの間にか溶け込んでいました。
女子だけなので、『恥らう』ということを忘れ、女子度が著しく低下したことは間違いないはずです。
友人たちとはじめたバンド活動から音楽にはまり、行きたい大学は音楽サークルで選びました。
しかし、浪人して2度挑戦するも叶わず…
思えば、これまで中学、高校、大学すべて夢敗れ。頭の悪さと本番での心の弱さは、この頃自覚しました。

「福岡大学工学部」に進み、電気磁気学を専攻。 勉強した内容は質問しないでください。
工学的な視点より、より美しく回路を組むことに楽しさを感じていました。
ここでの学びが今活きているのか?それはもっと先に分かるような気がしています。
大学時代はバンドとバイトに費やし、稼いだお金でグラフィックデザインをかじりました。

その頃から広告業界を目指し、教育系広告を主としたベネッセグループ進研アドに入社。
ここで私の社会人・広告営業マンとしての基礎を叩き込んでいただきました。
プロフェッショナルの皆さんが力を発揮できる環境や道筋を作ることが、広告営業の仕事だと思います。
そしてまた仕事をしたいとお客様からもメンバーからも思っていただけることが最高の喜びでした。

しかし30歳という節目に、人生の挫折と過労から体調を崩したことをきっかけに、生き方を見つめ直そうと退職を決意。
仕事にはやり甲斐を感じていたものの、当時の生き方に疑問を感じるようになっていました。
お金は充分に手にしているものの、得られない幸福感や生きがい。
『全財産を使い切り、考え方や価値観をリセットする!』ために、海外行きを決断!


大塚祐子

英語力は皆無、当時初めて受けたTOEICは370点。全く話せもしないのでフィリピン英語留学からスタートしました。
マルタ共和国ではホームステイしたり、そこからヨーロッパや中南米など10数カ国周り、半年後にはミャンマーの企業に就職。
民主化に向かい始めた国は、とても穏やかに見えました。
しかし、まだまだ問題も多いようで、『私に何かできないのか、どうしたら変わるのか』、と考えながら、みんなが自ら考え判断し選ぶことのできる環境が作れたらと強く思うようになりましまた。
そのためには大きく寄与するのが『教育』であることを再確認しました。
私を雇ってくださった現地の社長は、この国における教育の大切さについていつも話してくれました。
そしてそれを体現するべく、17年運営しているインターナショナルスクールから派生したミャンマー語による私立学校を2014年6月に設立されました。
軍事政権で私立学校はすべて廃校に追いやられていましたが、2014年より許可がおりたようです。
数年後には大学設立を予定されており、その頃にはぜひ協力できるような人に成長していたいと思っています。

ミャンマーでの仕事は、技能実習生送り出し機関として、日本企業とのやり取りやミャンマー人スタッフ教育、日本語学校の広告広報などを担当。人柄はとても暖かく、みんないつでも助けてくれました。
その分、私もみんなにお返しができないものかと日本語を教えたり、日本式の仕事の仕方や考え方を伝授したりするものの、それ以外には自身に何のスキルもないことに気づきました。
そんな折、母が体調を崩し、退職と帰国を決意しました。気持ち半ばで帰国しましたので、日本でもミャンマーと関われる仕事を探していたところ、ボーダレス・ジャパンを紹介会社よりご紹介いただきました。
memberのページを見ながら、みんなの意識の高さに尻込みしましたが、ミャンマーのために何かしたいという気持ちと意識の高い人たちと働いてみたいという気持ちで応募しました。
そして一人でも多くの子供たちが安心して学ぶことができ、自ら選択し生きるために働きたい!という思いで入社しました。

現在、Business Leather Factoryに所属し、息の長いブランドに成長させるために、店舗展開を担当しています。
先日バングラデュシュ出張で、現状を目の当たりにして、業務進行のスピードを上げることを決意して取り組んでいます。

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。