座右の銘

落ち着いてやれば何でもできる 六大無碍にして常に瑜伽なり

なぜこの仕事をするか

大好きなものが何かや誰かの犠牲の上で成り立っている 社会を変えたいから

わたしの履歴書

自分を辞書で引いたら「愛するものを狂うようにのめり込む様」と書いてあるんじゃないかと思います。
お茶、神話、ヨガ、ネイティブアメリカン、星、超古代、宇宙哲学、おにぎり、これまでの人生で様々なものにのめりこんできました。

刹那に消えていってしまう本来のものを伝承し、未来に伝えなきゃというスイッチが入ってしまうのかもしれません。

その中でも、人生でのめり込みを越したのが「服」です。

幼少の頃、音楽やカルチャー、ファッションに根差したものが大好きで、映画を見てあらすじよりも衣装やサウンドに感銘し、狂うようにのめり込んでいました。ロカビリーやヒッピー、宇宙服、ロックミュージシャンやソウルのディーバの衣装など色んなものが刺激的で、衣装を真似したり踊ったり歌ったりするのが大好きでした。普段の生活では着せ替えにのめりこんでいました。リカちゃん、ジェニー、バービー、ティモテなどバザーなどで人形や洋服をコツコツ集める収集癖がありました。

小学校1年生の時に初めて夢の島に行き、「夢の島はゴミの島」ということを知りました。そしてあと30年後にはごみを埋める場所がなくなってしまうということに聞き、子供ながらにゴミを捨てるのはやめようと思ったことと同時に、ゴミが沢山あることに実感が湧かないチグハグ感を受けました。小学校の時に洋服をデザインしました。ダークブラウンのジャンパースカートで母のお下がりのニットとチャッカブーツに合わせるのが気に入っていました。夏休みの宿題にデザイン画を毎日書いて自由研究の宿題にしていました。
憧れはデザイナーでヴィヴィアンウエストウッドやヨウジヤマモト、ゴルチエ、クリスチャンディオールやココシャネルの生き方、スタイルにのめりこみました。中1の頃R&BやHip-hopにはまり、この頃からヒストリカルなもの、民族性の違いにおけるパワーやカルチャーやライフスタイル、豊かさの価値観について世界を見に行きたいと思うようになりました。

高校生の時にネイティブアメリカンのズニやホピ族の「地球は未来の子供たちから借りもの」という思想に心を打たれ、その思想と自分の使命と向き合うためにはじめて1人でアリゾナに行きました。豊かな大地と地球への敬意。自然との調和とバランス。
どことなく日本の本来の考え方にも通じるものがありました。
その時から服や装飾を「作ること」より、服や装飾の「意味や力を伝えること」に根差したことをしようと決めていました。

帰国して服のゴミの山からまだ輝く宝物をピックする古着のバイヤーになりそこでお金を貯めはじめ、グローバルに通用するファッションビジネスを学びに渡加、渡米しました。

しかし留学中は暗黒期で、生活も学問も人間関係も苦労がたえませんでした。精神的な豊かさよりも、物質的な豊かさが萬栄していて想い描いていた「デザイナーや服への敬意」をベースにあるファッションビジネスはそこにはなく、トレンドや効率などをベースにした内容に少しがっかりしました。
何不自由なく通う学生と自分を重ねたり、物質的な豊かさだけを踏まえたファッションの授業に葛藤し、順応できない自分がいました。ある種の皮肉を込めたマーケティングのプレゼンが唯一の反逆で、「本当の心の豊かさを取り戻したくて人は今後エコやオーガニックを多く消費するだろう」という切り口の商品をプレゼンしたのを覚えています。
少しアウトロー気味になりはじめていました。他の人になめられないように人間離れをした風貌をしていました。精神的に強くなりたくてヨガにのめりこみ毎日3時間トレーニングをしました。
COLLEGE卒業後デザイナーのアシスタントやレザーの卸売、NYの老舗ブランドで働いていましたが、癌を患い日本へ帰国することにし、安全な生活を選択することにしました。人生を徐行運転で進めようと大手小売企業に中途で入社しました。

転機が訪れたのは完治間際の2009年。
日本に帰国後心身ともにうまくいかない状況から自分の生きる目的、働く目的を失い、私はいろんな葛藤から社会へ順応できないと思いこみ反動で自分の好きなことだけに没頭しようとしていました。
自分の「好き」を満たすために、働いたお金をすべて服に注ぎ、服への愛を言い訳に家が「服博物館」と化していました。それが気づいたころには遅く、莫大な借金を抱える結果になりました。服への愛が過剰な執着と、違和感があった物質的な豊かさのファッションに流されていました。

生まれてはじめて自分のためだけに生きる虚しさを身を持って感じました。
なんとか「自分へ絶望している自分」と向き合って唯一出てきた考えが、 自分のために十分生きてきたんだから、今度は誰かのために生きて死のう。そしていつか自分だけのことを考えて生きてきたこの経験が、誰かの役に立てるのではというところにいけました。 少しずつポジティブになり、その時から誰かのために役に立つ生き方はないのかとソーシャルビジネスや社会貢献をむさぶるように勉強しはじめました。
誰かのために生きることで絶望から救われると思ったからかもしれません。

そんな矢先、今度は社会に絶望しました。
杜撰すぎる衣類の環境破壊を目の当たりにし、その時はじめてオーガニックコットンが本当に必要な理由を知りました。
見た映像は大地を枯らし、その生産者の皮膚をめちゃくちゃにしてしまう悲惨なものでした。作る人達は中毒症状、健康被害を脅かしていて、散布剤撒いてるときは家から出られない状態を目の当たりにしました。
私は泣き崩れました。
大好きなものが何かや誰かの犠牲の上で成り立っていると知って、未来の子供たちから借りているこの地球を台なしにしてしまっている社会と自分にさらに絶望しました。

このきっかけが、人や地球に迷惑をかけずに洋服を楽しめる社会の両立を人生かけてやると決意することになりました。それ以降私はこの問題がなぜ表面化しないのかを分析しました。2.4%しかない国内自給率の低さから環境破壊との物理的距離が原因で無自覚を生むのだと思いました。洋服を自分で育て自分で着る「自産自着」が可能になれば、洋服に対する愛情がまし、起こっている環境破壊に目を向ける機会を創出し、環境負荷の少ない衣生活をおくる人が増え社会が変わるのでないかと考えました。
以後「畑で棉を育てて着る自産自着ビジネス」の企画、実験をし始め、2011年から小さく畑を借りて綿を育てながら紡ぐという取り組みを始めるようになりました。併せて20年で3倍に膨らむ耕作放棄地を何とかしなくてはと使命感にかられ、重なり合う社会問題の解決の糸口にもなるのではと胸を躍らせました。

しかし、全ての工程を手で行い染料は草木染以外は絶対使わないなど商売ベースで成り立ちにくい原理主義なことばかりを考え、先行きとビジョンを自ら曇らせました。利益を出しにくいモデルとして誰にも賛同してもらえず、自分で環境問題に立ち向かうのは無理なんじゃないかと打ちひしがれる日々を送っていました。
2018年にグラミン銀行のユヌスさんが来日し、「誰もが世界を変えられる」という言葉にまたも魂が揺さぶられました。

以後2018年にボーダーレスアカデミーに参画し、ソーシャルコンセプトの格子やソーシャルビジネスのイロハを学び2019年ボーダーレスジャパンに参加しました。
プランニングをし、また自分と向き合う中でや人や地球が洋服を楽しむ社会を実現するためにまず始めることは、普段から人や環境に配慮した服を当たり前に増やすことだと考えを改めました。この考えに至ったのはスピードを持ってソーシャルインパクトを出さなくてはいけないという危機意識と、日本のエシカル消費など、人や環境への配慮した商品の実践率が2割と乏しいところからこれまでの10年間のプランを横に置き、社会を変えるために、2019年9月人や環境に配慮した洋服だけを届けるセレクトショップとして起業しました。

ONLINEインタビュー記事
2020. 02.21 Ideas For good

2020.02.21 光文社
2020.02.21 光文社

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。