座右の銘
特になし
なぜこの仕事をするか
私が人生の覚悟を決めた仕事だから。
わたしの履歴書
私は人生で過去に、4度覚悟をしたことがあります。
1つ目は、アメリカの大学に入学する前、オールAで卒業しようと決めたこと。
2つ目は、青年海外協力隊員としてケニアに派遣される時、自分が一生をかけてやりたいことを絶対に見つけると決めたこと。
3つ目は、ケニアで起業する時、自分の会社を命がけでやろうと決めたこと。
4つ目は、ボーダレスグループに加入する時、ホンモノのソーシャルビジネスで世界を良くしようと決めたことでした。
なぜこんな覚悟をしてきたのか。私の人生を振り返ってみたいと思います。
私は、神童と言えるほど学業優秀な姉と、小さな頃から比較されて育ちました。頑張っても私はいつも、2番手でした。作文や自由研究のコンクールなどで、姉は全国大会まで行くが、私は県内で終わる。そんな感じでしょうか。
ただし、一つだけ、私には誰にも負けないと心の支えになっていたものがありました。それは、絵画でした。
絵を描く才能だけは、両親から手放しで称賛され、先生や友人からも褒めてもらいました。
私は高校1年の夏から、美大に進学しようと、美大の予備校に通い始めました。ところが、予備校でデッサンをすればするほど、辛くなってしまったのです。
デッサン一枚一枚に成績をつけられ、先生の講評も納得がいかない・・・。
だんだん絵を描くのがつらくなり、予備校を1年足らずで辞めました。情けなかったです。
次に選んだ進路は、姉と同じアメリカ留学でした。姉と同じ大学に行くと決めたのです。
ただし、姉が理系に進んだところ、私は国際公務員を目指して国際関係学を学ぶことに決めました。
これは純粋に、世界から不公平をなくしたいと、子供の頃から抱いていた正義感から、自分なりに考えて導き出した進路でした。しかし目下はとにかく姉に勝ちたい。
この一心で、私は英語を猛勉強し、高校3年生の秋にはすでに、アメリカの4年制大学に余裕で入学できる英語力を身につけました。そして、心に決めました。「アメリカの大学では、オールAで卒業してやる」と。
結果的に私は、テキサス大学で、Summa Cum Laudeというトップ5%の生徒だけに与えられる称号を授与して卒業しました。
フランスにも9ヶ月留学して、フランス語の学士号も取りました。1単位だけBをとりましたが、残りの全ては、Aで卒業しました。負けてばかりの自分、弱い自分、挫折した自分。この自分を、最優秀の成績で払拭できたと思いました。その時は・・・。
(大学3年生のころ、9ヶ月間のパリ留学中に美術学校で描いた油画習作)
ガリ勉だった大学時代。国際公務員になるべく次は大学院に行こうと考えていたのですが、オールAが目的だった私は、人生の目標を失っていました。
次に何をしたいのか、具体的に分からなかったのです。
苦し紛れに私は、大学4年の秋、ボストンに集まった100社以上の日本企業のうち、急いで金融機関に絞って数行応募しました。
幸運にも、3日間のフォーラムの中で2行にすんなり内定決定。
そのうち面白そうな方を選んで入行しました。4年くらいで辞めて、アメリカの大学院に戻ろうと考えていました。
しかし人生急がば回れです。
焦って見つけた仕事だっただけに、さらに人生の方向に悩むことになります。
銀行での2年半は、保守的な組織風土や銀行ならではの堅さに馴染めず、苦行のようでした。
私は何がしたくてこの仕事を始めた?将来大学院で何をするの??毎晩のように、自分が何のために生きているのか考えていました。
そしてでてきた答えは幼いころの思いとやはり同じでした。
「世界から不公平をなくしたい」
この思いが高まり、行員になってから2年たったころ、私は青年海外協力隊の応募用紙に向かっていました。
勝負ごとには強いのか、第一希望の「ケニア・ミゴリ郡で大豆農家組合とともに、大豆栽培・加工の普及を行う」というポストに合格。
行員時代自分の生き方を見失っていたからこそ、私は「世界から不公平をなくしたい」という原点に帰り、言い訳は絶対にしない。
自分の生きる道を、協力隊の2年で見つけ出す。と覚悟したのでした。
しかしそれでも当時は、まさか自分が起業するとは考えてもいなかったのです。
初めはやはり、きっと大学院に戻り、国際公務員になるのだろうと予想していました。
ところが現場で強まった思いは「院で勉強し国連競争試験を受けて国連に入って・・・などとやっている暇がもったいないくらい、今この瞬間、目の前の貧困を何とかしなくてはならない」ということでした。
今まで様々な組織が取り組んできた貧困解決が本当に有効なら、今頃アフリカは豊かになっているでしょう。でもそうではない。私が、現場で、人生をかけて、変えなければと思いました。そのためにはどうしたらいいか?自分の会社を現地で起こし、自分も会社の利益で暮らしながら、人生の全てを会社に捧げれば良いのだと考えました。
そして協力隊の任期を終えた2016年1月。
2週間ほど日本に帰国しケニアに戻った私は、2016年2月、大学院進学のために蓄えてきた貯金などをかき集め、「貧しい小規模農家との大豆契約栽培と卸売により、ケニアの農業サプライチェーンを改善し、貧困削減を目指す」アルファジリ・リミテッドを設立しました。
この時私は、「私の命と会社は一緒」という覚悟でした。私が何のために生きて死ぬのかわかり、迷いから解放された時期でした。この頃から同時に、私は誰かに勝つためとか、自分に勝つための覚悟ではなく、社会のために覚悟をすることができるようになってきたのだと思います。
それでも一人での会社経営は本当に大変でした。
初めのうちは、怪しい会社に大豆を販売してしまい、代金を支払わず逃げられたり、契約農家に、アルファジリが提供した農業資材のローンを返済しないまま、栽培した大豆を他の売り先に売られてしまったり。苦労しながら、数人の従業員と共に、何とか必死で会社を切り盛りし、何とか農家や販売先との関係を築いていきました。
そんな苦労を日本から見てくれていたのが、現在のCFOである西田瑞樹さんです。
彼は私が勤めていた銀行の同期だったのですが、彼との出会いが唯一、私が日本で苦しんだ社会人2年半が全く無駄ではなかったと思えた出来事でした。彼がいなければ、アルファジリは「ハムスターが回し車の中を必死で走り回るような」苦しい状態が何年も続いたかもしれません。
アルファジリを創業して約8ヶ月、フェイスブックで突然連絡をくれた彼は日本から遠隔で仕事を手伝ってくれ、1年半後には、とうとうアルファジリの役員として入社してくれました。彼の当初の主なミッションは資金調達でしたが、調達先を探す中で、もっともビジョンや社風に共感したのがボーダレス・ジャパンでした。
田口社長やグループ会社の社長とスカイプでお話をさせていただき、加入する覚悟はすぐに固まりました。この本気でソーシャルビジネスに献身できるプラットフォームに、私たちが参加しない理由がありませんでした。
ボーダレス・ジャパンの一員となってからというもの、アルファジリの空気はガラリと変わりました。農家の組織づくりや社員の育成に腰を据えて取り組めるようになり、同じ未来にむかってあゆむボーダレス・ファミリーと共に、私は遠い未来・次の世代についてまで考えて経営をすることができるようになりました。
今の、私の覚悟は「すべての人が、自分の意志で、自分の人生を選び取れる世界をつくる」というものであり、これは会社のビジョンであり、社会に対する宣言です。今までの私の人生の覚悟が、他人との競争、自分の弱さとの葛藤だったものが、社会に対する、独りよがりではない、たくさんの仲間との覚悟となっていることに、自分が幸福だということを改めて自覚し、感謝しています。
これからも、「すべての人が、自分の意志で、自分の人生を選び取れる世界をつくる」ために、経営者として覚悟を重ね、成長していきたいと思います。
ちなみに、絵を描き、誰かに贈ることは、今でも私の心の支えです。
(長崎での銀行勤務時代に描いた。長崎市・築町の花屋の前にいた猫の親子)