座右の銘

Hasta la victoria siempre(常に勝利を目指して)

なぜこの仕事をするか

ペルーを初めとするラテンアメリカ先住民が、誇りと尊厳を持って自由に生きられる社会を創りたい。ボーダレスジャパンには、その思いを最速で実現し、最大のインパクトを出せる方法と仲間がいると思っています。

わたしの履歴書

1994年4月21日岩手県生まれ、5歳の時から横浜育ち。
横浜市歌は今でも歌えて、ラーメンは家系ラーメン、出身地を聞かれたら「横浜です!」と答える生粋のはまっ子を自称しています。

小さい頃は病弱でしょっちゅう母親に病院に連れて行ってもらっていましたが、ちょっとやそっとの怪我じゃ動じない、丈夫なのか弱いのかよくわからない子供でした。
また、優秀な兄に比べられるのがコンプレックスで、自分のアイデンティティを探していたちょっと気持ち悪い子供でもありました。

小学生あたりから「自分を表現する方法は、とにかく悪いことをして目立つことだ!」と何やら勘違いしてしまい、そこから僕の中の暗黒時代が始まります。
問題を起こしては親が呼び出され、毎日色んな所で僕の代わりに頭を下げる。
思い返せば、当時の自分をぶん殴りたくなる日々を過ごしていました。

高校にも進学しないつもりでいましたが、当時の担任の先生と両親の必死の説得により考え直し、当時の僕でもなんとか行けた、日本初のフレキシブルスクールに入学しました。

僕の人生の節目にはいつも、真剣に向き合ってくれる大人がいると改めて思います。

制服もなければ校則もない、時間割は自分の好きなように決められる。
緑の頭をした顔中ピアスだらけのバンドマンから、20代半ばの同級生までいる。
そんな、制度も人もフレキシブルな環境で3年間過ごしたことが、人との違いを受け入れられる今の人格を形成してくれました。

それまで、故郷の横浜からもほとんど出たことがなかったのですが、外の世界への漠然とした興味がありました。
なので、大学入学後はさっそく「外の世界見に行ってやるぜ!」と意気揚々としていたのですが、飛行機が怖くて断念します。

そんな時に、友達のミヤチくんから、あの世界一周の船旅「PEACE BOAT」を教えてもらい、船で外の世界に繰り出しました(洗脳されるとか噂でありますが全然そんなことありません)。
初めて訪れた海外が中米エルサルバドルというちょっとディープな中米の国でのホームステイが、僕の人生のターニングポイントになりました。
中南米ってなんだか危なそうだし、外とか歩いたら身ぐるみ全部はがされるんじゃないかと思っていましたが、貧しいながらも他人を思いやる器の大きさを持った人達に衝撃を受けたことを今でも覚えています。

しかし、子供は学校に通えず働かなければならない、家族の誰かはアメリカに出稼ぎに行かないと生活できない、外を歩けば物乞いに囲まれる。 今まで無関心だった「貧困」という言葉がリアルになり、ラテンアメリカと貧困問題に興味を持ったのはこの時からでした。

その後、ボーダレスハウスに住んだことがきっかけで、ボーダレスジャパンとソーシャルビジネスを知りました。
寄付や善意だけではなかなか社会は変わらないと思っていた僕は、ビジネスで貧困問題を解決すると知った時は「これだ!」と思いました。

その後、スズケンと同じ官民協働海外留学プログラム「トビタテ!留学JAPAN」を通じてペルーとグアテマラに留学します。
ペルーに行くまであんまり現地のことを調べず、マチュピチュとナスカの地上絵くらいしか知らなかったので、カルチャーショックが止めどなかったです。
ですが、親切で陽気な人達のおかげで、ペルーが第二の故郷になりました。

しかし、実際に生活してみると、ラテンアメリカの人種による階級社会など、よりリアルで根深い社会問題が見えてきました。
特に先住民に対する差別や偏見は今でも根強く残っており、貧困層の殆どが先住民です。
その土地に最も古くから住み、本当は誰よりも自由に生きる権利を持つはずの先住民が虐げられ、社会的な抑圧を受けているなんて絶対におかしい。
美しい文化や風習を持った彼らがもっと自由に、人生の選択肢を持って生きていける社会を造りたい。
生活を送る中で、そんな思いが強くなっていきました。

人は生まれながらにして平等ではないと思います。ですが、前提を整えることはできると思います。
そんな現状をビジネスの力で変えたいという思いから、ボーダレス・ジャパンへの入社を決めました。
まだまだ未熟な僕には、新卒1年目から事業立上げのチャンスがたくさんあるボーダレス・ジャパンはそのための最短ルートだと思い、入社しました。

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。