座右の銘

求めよ、さらば与えられん
自分にないものは、必要ないもの

なぜこの仕事をするか

次の世代の子どもたちが心健やかに暮らしていける社会・地球を残していくため。微力ではあるが、その時の自分ができる範囲でやりたいことをやることで、より良い社会作りに貢献できるなら、きちんと自分の心の声に従って生きていきたい。

わたしの履歴書

大阪府摂津市出身。サッカーJリーグ発足の1993年5月15日、開幕戦キックオフとほぼ同時に生まれました。それが、修斗という名前の由来です。両親は、『この子はきっとサッカーの申し子に違いない!』と確信したらしいのですが、ボールを与えると全力で拒否!そして、3歳半までベビーカーを乗り回すという強烈な甘えん坊ぶりを全力で発揮!(笑)今でも生粋の甘えん坊です。3人兄妹の長男ですが、なぜか年上の女性によく可愛がられます。(笑)

サッカーを始めたのは小学5年生ですが(遅い)、それまでは水泳、空手、テニスなど、色々なスポーツに手を付けていました。そして何をしても、まぁまぁ下手くそでした(笑)。中学入学後は、レオサッカークラブという地域のクラブチームに入団しました。自分の世代は、当時チーム史上最強と言われており、ガンバ大阪のジュニアユースなどの強豪チームがひしめく1部リーグにまで昇格しました。そこでサッカーをすることは、大きなチャレンジでした。

しかし、半月板損傷により2度の手術を受けて1年半ほどリハビリの日々を過ごしました。周りとの実力の差が開くだけでなく、チームメイトとも上手く馴染めず、孤立した時間を過ごしていました。それでも、親の目を気にして『良い子でいなきゃいけない。』と言い聞かせていたので、1人で抱え込んでいました。

そしていつしか、「自分は誰にも受け入れられてないんだ。スポーツも勉強もできない、周りと比べて自分には何の魅力も自信もない。」という勝手な思い込みと、強い劣等感を覚えるようになりました。そんな中で3年間やり切れたことは、今の強い精神力と根性に繋がっています。

高校生になっても自己表現が上手くできず、人間関係に苦しむ時間が続きました。特に学びたいこともなかったので、高卒で就職しようと考えていましたが、ある日突然『メッシに会いたいから、大学でスペイン語勉強するわ!』と言い出し、それまで勉強など一切していませんでしたが、なんとか大学受験に合格。

大学生活では、スペイン語圏を渡り歩いていました。1年生の頃、スペインに1ヶ月間だけ留学しました。念願の、バルセロナ。メッシの得点シーンを生で見たことは、一生忘れません。

帰国後、JUMP ZONEというキッズ向けの逆バンジートランポリンのアルバイトに没頭しました。現場の設営、営業、撤収まで全てをアルバイトで回していたことで、強い責任感や自分の頭で考え代案を出す力や様々なアクシデントに柔軟に対応する力が身についたり、人を楽しませたりする仕事のやり甲斐を見出すことができました。そして、仕事を純粋に楽しむことの大切さも学びました。愛媛、名古屋、岡山、高知、徳島など、アルバイトだけで様々な現場を長期出張した経験も、今の大きな財産に繋がっています。

大先輩の呉原郁香さん呉原祐香さんとは、その頃から同じ職場で働いていました。彼女らに勧められるがまま、中米グアテマラ留学を決意(笑)※きちんと調べて、ワクワクしたから決めました(笑)。

そこから2年休学して、中米グアテマラに渡航しました。そこで初めて、貧困問題に直面しました。5歳の女の子に物乞いをされたことを機に、社会問題に関心を持つようになりました。親の収入がないから、子どもを学校に行かせられない。子どもが学校に通えないから、生きる上で必要な教養が身につきにくい。大人になっても仕事がない。学校に通う大切さが分からないから、結婚しても子どもを学校に通わせない。そんなサイクルを目の当たりにしました。何かできることはないかと考えていた矢先、縁あって、NPO法人スパニッシモでインターンを始めることになりました。

そこでは、現地の雇用創出を目的に、オンラインのスペイン語レッスンを日本やアメリカのスペイン語学習者に提供していました。主にグアテマラの女性を、スペイン語の先生として雇用することで、彼女ら/彼らの生活を安定させていたのです。自分が目にした貧困のサイクルを解決するようなビジネスモデルが、そこにありました。余談ですが、当時(今も?笑)の自分は超ポンコツでした。PCのタイピングを人差し指で一生懸命やっていたくらいですから、かなりの役立たずでした。笑 それでも、あそこに思い切って飛び込めたのは、"貧困問題解決に貢献したかった気持ち"と、"まず何でもやってみる行動力"があったからだと思います。

約半年間のインターン期間を経て、帰国しました。
その後、大学の先生から、メキシコの日系自動車企業でスペイン語通訳インターンを勧められ、3ヶ月間メキシコに行くことにしました。社会問題とは関係ありませんでしたが、MAZDA Logistica De Méxicoでもまた、貴重な経験を積ませていただきました。

帰国後、将来どうしようかと悩んでいた矢先、身近な人が精神疾患を抱えていることを打ち明けてくれました。鬱病、PTSD、パニック障害、、境界性パーソナリティ障害、そして、HSP(Highly Sensitive Person つまり超敏感体質)。HSPは、病気と言うより単なる体質のようです。 日本にもまた、自分の力ではどうにもできない、もしくは生きづらい状況を抱える人がいることを知りました。

しかし、視野の狭い大人たちは、それらを『甘えだろ。気持ちの問題だ』と、共感のカケラもない一言で片付けます。多様性がどうのこうの言うくせに、国内の多様な価値観・感じ方・体質を持つ人たちを認められなくて何がダイバーシティ社会なのでしょう。それを病気ではなく個性と呼べる、前向きに捉えられる寛容な社会であるべきではないのだろうか。そんな疑問を感じながら、3年間その人のケアに徹しましたが、自己犠牲が過ぎて自分が潰れてしまいました。その人には、一生かけても返し切れないくらい、自分を育ててくれた恩がありました。だからこそ、その人の身体が少しでも良くなるように、自分ができることをしたかった。人生、思うようにはいきません。

復学後、ボーダレスジャパンで働く呉原祐香さんから連絡が入り、ビジネスレザーファクトリー(以下BLF)大阪難波店でアルバイトを始めないかと誘われました。この縁とチャンスを逃してはいけない!と、心が叫び、BLFで働くことにしました。初めての販売・接客業。今まで、接客といえばJUMP ZONEで子どもたちを相手にしていただけなので、最初の3ヶ月は『おじさまと何喋ったらええねん!』と困り果てていました。笑 BLFでは、学生アンバサダー(自称)として、全国各地の店舗を勝手に訪問し、様々なメンバーと交流し、各店舗の良い所を沢山盗んでいきました(笑)。拠点の難波店では、店舗VMDや店舗社長など、とても大きなチャレンジもさせていただきました。これらの経験を積ませて頂いたことには、心から感謝しています。復学〜卒業までの2年間、色々なことが重なり、自分自身も軽度の鬱や自律神経失調症(調べる限り、近しいものはこれらでした。)で苦しんだ時期もありましたが、本当に多くの方に支えられ、どうにか生き抜いて大学を卒業することができました。

私は、成し遂げたい夢に向かって一直線に進んできたわけではありません。だからこそ、直感力を研ぎ澄ませ、目の前の人や出来事に縁とチャンスを感じたら、迷わず飛び込んできました。それは今後も変わりません。点と点が繋がって線になるように、人生における一つ一つの経験は、10年後の自分へのギフトになると確信しています。できる、できないは、関係ありません。その時やりたいか、やりたくないか。ワクワクするか、しないか、きちんと心の声を聞くことが一番大切なことだと思います。それがいつか、次の世代の子どもたちがハッピーに暮らせる社会に繋がるなら、私もハッピーです。それぞれの『やりたい』という気持ちを尊重してくれるボーダレスジャパンに出逢えたこと、心から嬉しく思います!

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。