座右の銘
It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is most adaptable to change.
なぜこの仕事をするか
全事業と関わりを持ち、メンバーがそれぞれ成し遂げたいことをサポートするため。そしてボーダレスの成長を加速させる一員となるため。
わたしの履歴書
1995年6月30日生まれ。愛知県名古屋市出身。4人兄妹の長男
両親が共働きだったことから1歳になる前から保育園に入園し、妹が生まれた影響で大分県の祖父母の家で1年間過ごした年以外は朝早くから夜遅くまで誰よりも長い時間お世話になっていました。
保育園を卒園したのと同時にイギリスのリッチフィールドという田舎町に引っ越しました。学校は現地の小学校に入学したのでもちろん言葉が分かるわけもなく、20数名いた同級生には日本人どころかアジア人もいませんでした。全く英語が喋れなかった僕が授業の合間の休憩時間にサッカーに誘われたのが打ち解けるきっかけだったと思います。日本の小学校ではドッチボールやトランプなど休み時間はそれぞれが好きに過ごしてますがイギリスでは男子はサッカー一択の強制参加でした笑 たまたま足が早かったのとサッカーが上達したのが言語がわからずとも上手くやっていけた理由だと思います。
この時期から習い事もいくつか始めました。まず週2でサッカーを始めました。教えてくれる先生が学校に来て希望する人が参加する部活みたいな感じでした。そして英語の家庭教師の先生に週2で英語はもちろん小さな牧場を持っていたので馬や羊、山羊のお世話だったりバターの作り方だったりと多くのことを経験させてもらいました。ついでにピアノも習い始めました。
2年目の8歳ごろから日本人学校に土曜日の午前中だけ国語、算数、理科、社会を学びに通い始めました。イギリスで日本人の同年代に初めてあったのもこの時です。ただサッカーの大会などがあると休んでいたので2週に一回ぐらいしか行ってませんでした。
毎年夏休みなどの長期休暇は町で学生向けに色んな活動が行われてました。僕は主にサッカー、乗馬、陸上、アーチェリー、キャンプに参加しましたが小さい町だからか結構顔見知りに会います。サッカーと陸上や、サッカーでも別の団体がやってるサッカークラブなどでです。日本人で実力もそこそこだった僕は話しかけられて家に遊びに行ったこともありました。
またこの時にヨーロッパの国々を旅行したのもいい思い出です。主に車で移動していたので、
日本人の観光客が行かないようなところばかり旅して泊まってました。そして帰国する頃には習い事もサッカー、テニス、ホッケー、チェス、英語、フランス語、ドイツ語、ピアノ、フルート ボーイスカウトと今考えると自分でもよくやっていたと思うほど色々やってました。
10歳の12月に日本に帰国しました。当時は小学校4年生の3学期でした。
そして今度は日本語が拙いという場面に直面しました。漢字なんかは1年生レベルでとにかくボキャブラリーが少なかったですし、同級生が話すテレビ番組や芸能人、漫画、アニメ、音楽の話も全然ついていけなかったです。笑
一番困ったのは敬語が全く使えず上級生を呼び捨てで呼んだり、タメ口で話かけたりしていました。当時と比べれば今ではだいぶ上達しました。たまに仲良くなりたいと思った人には砕けた言葉遣いになることもありますが。
帰国してからもすぐにサッカー部に入部し、ドッジボールクラブや保育園のときにやっていた空手を再開しました。ついでにピアノも。
そんな学年最低クラスの成績だった僕でしたが6年生の時に塾に通い始めました。中学受験の為です。どんどん成績が伸びていきましたが、それに反比例してどんどん勉強が嫌いになりました。受験は無事に合格しました。中学は全寮制の中高一貫校(男子校)に入学し、勉強からやっと解放されたと喜んだのですが、寮生活をなめていました。僕は数ある寮の中で、比較的緩いハウスで過ごしていたのですが、それでも娯楽がなく外出が制限される環境(外に出ても田舎なので何もありませんが)にはストレスが溜まりまくりでした。
そこで六年間過ごしたことは自分でも驚きです。もう一度やれと言われたら発狂します。
高校3年生になり周りが受験勉強をしてる時も早く卒業して解放されたいとしか思ってませんでした。大学受験はしましたが、勉強もせずに受かるわけもなく浪人することになりました。が、卒業した解放感から入塾したにもかからずほぼ行かず全く勉強しない時間を過ごしました。
卒業から1年ぐらいたった19歳の時福岡の伯父さんのところで働くことになりました。それまでアルバイトを1度も経験したことがなかったので、伯父さんが経営する居酒屋とレストランで働けたことはとても貴重でした。特に面白いと思ったのは、栄養価が高い野菜作りに関する取り組みをしていたことです。不思議なことに栄養が高い野菜は虫にやられることが少ないそうです。
そこでの経験から自分も経営の道に進みたいと思いはじめ一通りの経営に関する知識が学べる中小企業診断士の勉強をするため専門学校に入りました。専門学校では中小企業診断士の勉強以外にも簿記や販売士など細かな資格もついでで取っておきました。
就職活動をはじめた3月ごろは戦略系コンサルを志望していました。理由は単純に多くの企業を経営の面からみることが出来、自分が起業するときに役に立つと思ったからです。しかし中々条件が厳しく、いまいち惹かれなかったため、考えを広げようとしていた時、ボーダレスジャパンを見つけました。最初に感じたのはこういう事業がやりたかったでした。僕の場合は社会起業家を対象にした事業ではなく、起業したいと思ってるひとや職人さんなどが作る日本の質のいい「物」をビジネスにしたいといった感じで漠然としていましたが気が付けばHPを読み込んでいました。ここに行ってもっと深く知りたいと思いました。しかしボーダレスが求める人物像と自分が少し違っているとも感じていました。
特に僕が見つけた8月ごろには内定者も結構いてその人達のインタビューや学生時代に行ってきた活動を自分はしていなかったことから新卒の採用枠で入るにはアピールできる部分がいまいち足りないと感じていました。
新卒の採用枠では社会企業家のたまごを求めていると感じましたが自分はどちらかというと様々な事業がこれから世界中で立ち上がっていくであろうボーダレスにおいて経営面であらゆる事業を成功に導けるような存在になりたいという気持ちでした。
なので一旦就職はやめて一年ほど世界のどこかに旅に出かけようかとも考えてた2月ごろ中途採用で新しく経営企画の募集を見つけました。「事業の立上げから軌道に乗せるまでを行う経営のプロ集団」、自分のやりたいことにぴったりだと思いました。早速応募し今に至ります。
まだ自分が目指す理想とはほど遠いですが、確実に進んでいるのを感じます。