座右の銘

You Only Live Once 「人生は一度きり」
おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなすものは心なりけり (高杉 晋作)

なぜこの仕事をするか

強い志を抱いて起業した社会起業家のハンズオン支援で社会問題解決に貢献できること以上のやりがいはないと感じているから。

わたしの履歴書

1985年3月24日、大阪生まれ。

目立ちたがり屋で人から注目されることが大好き。厳しく教育したせいか、誰に会っても挨拶だけは欠かさずしていた八方美人な幼少期だったと両親から聞いております。

地元の公立小学校に入学。この小学校、全校生徒が1,000人を越すマンモス小学校だったので、全校集会では校庭が生徒で埋め尽くされていました。
ここでも目立ちたがり屋の性格は健在で、小学1年生の時にこの全校生徒を代表して活動している生徒会を見て憧れを抱き、高学年になったら必ず生徒会に入りたいと心に誓いました。
学級委員制度が適用される四年生から六年生までは、毎年学級委員長を勤め、最終学年では念願の生徒会を勤めていました。

同じく地元の公立中学校に入学後は、自身が小柄だったため強くなりたいと思い、柔道部に入部。学校・部活と併せ、入学直後から高校受験を意識して学習塾にも通っていたため目立ちたがる余裕もなく、小学生の時のキャラクターはどこへいったのかと自分でも思うほど普通の毎日を過ごしていました。

高校は自転車や電車での通学に対する憧れがあり、地元からは少し離れた私立の進学校に入学。勉強と部活に費やしてきた中学生時代の反動で、部活にも入らず友達とふらふら遊ぶ毎日でした。また校則が厳しいことで有名な高校で、思いがけず校則違反を繰り返してしまったことで停学処分になりかけてしまったり、両親にはかなり迷惑をかけてしまったなと反省しています。
学業では常に成績上位だった小中学校の面影はなく、気付いたら成績下位が指定席となっていました。
周りにならって形だけの受験勉強もしてみましたが、心ここにあらずで大学受験も惨敗。

浪人時代は朝から晩まで予備校に通い、その後は深夜まで学費を稼ぐためのアルバイトをしていました。
高校まで敷かれたレールに順調に乗ってきたところから外れたことにより挫折を感じましたが、将来について考える時間ができ、またレールから外れたことで逆にここからは自ら人生を選択していくスタート地点かもしれないと感じ、肩の荷が降りて軽くなったことを今でも覚えています。
この一年間の浪人生活が、私の人生において一つ目のターニングポイントでした。

同志社大学に進学後は、せっかく浪人したのだから誰よりも大学生活を充実させようと思い、専攻の勉強、ストリートダンスサークルとテニスサークルの掛け持ち、当時目指していた教員過程の受講、飲食店と家庭教師のアルバイト掛け持ちという毎日を過ごしていました。
特に、ストリートダンスは終電後の駅や営業終了後のショッピングセンターで練習していました。街の人々からすると迷惑と思われる方もいたと思います。そこで私たちは「ここに来た時よりも美しく」を徹底し、練習後は自分たちのゴミでなくても持ち帰るようにし、少しでも迷惑をかけない行動を心がけておりました。
このように寝る間を惜しんで活動していたため、大学3年生の時に過労で倒れて1週間入院してしまったこともあります。

就職活動では教員免許を活かして教員になるか一般企業に就職するかで大きく悩み、様々な企業のOB訪問を重ねた結果、その中で最も魅力的だなと思える先輩が多かったことが理由で2008 年、株式会社リクルートに入社。
若手の頃は全く仕事ができなくて悩むことの方が多かったですが、そんな私に対してもお節介と思えるほどの愛情を持って育てていただきました。

20代も後半に差し掛かったタイミングで、仕事はそれなりにはこなせるようになってきて特に不満もなく毎日を過ごしていました。そんな中、友人と人生初の海外旅行でタイのバンコクを訪れることになり、そこで見た巨大なショッピングモールや発展している街と、片やその高架下で乳飲児を抱えて物乞いをしている母親をみて、世界が抱える貧困問題や格差・差別社会を初めて実感しました。
旅行から帰国後も、タイで見た光景が頭から離れず、何かできればと思う一方で特段何の取り柄もない自分に対する無力さを感じました。この経験が私の2つ目のターニングポイントでした。

自分の無力さと同時に、日本に生まれ不自由のない毎日を過ごすことができる自分はその運命に感謝すべきだと感じ、生き方を顧みることに。

目的もなく時間を過ごしていた日々を一切なくし、その時間を自己研鑽に充てるようにしました。自己研鑽を続けていく中で、自分はゼロから事業を興すタイプではないが、だからこそいつかチャンスが来た時にそれを掴める自分ではありたい、そのためにまずはどんな場所のチャンスでも活きるだろう語学力を磨くことにしました。

そして大きな挑戦できるのは今しかないと思い、会社を辞め、海外のビジネスカレッジに留学することを決意しました。

英語力はTOEICの問題文すら理解できないほどだったので、在職中は平日早朝と深夜、休日は朝から晩まで英語学習に励み、無事に希望していたカナダのビジネスカレッジに合格したタイミングで退職。

1ヶ月半のフィリピン留学中に現地で30歳を迎え、その後カナダへ渡航しました。
留学中は遊びの誘惑に負けそうになりながらも「挑戦するために来たんだ」という留学の目的を常に意識し、AM4時起床でAM0時就寝という勉強漬けの毎日を過ごしていました。

1年半におよぶ海外留学から2015年に帰国後は、自分と同じように海外に目を向けたい人達を支援したいと思い、オンライン英語教育事業を運営している企業に転職。

仕事内容には満足していたものの、自分自身も海外に打って出たいという思いが募っていたタイミングで、広告関連企業のグローバル事業部から、オーストラリアで新規に子会社を立ち上げるので一緒にやらないかとお声がけいただき、二つ返事で承諾しました。

入社後はオーストラリアのシドニーで約1年半、その後タイのバンコクに赴任し約2年間、事業運営に携わらせていただきました。
人生初の海外旅行でその土地を踏んだバンコクに、赴任という形でまた舞い戻ってこれたことを嬉しく思いつつも、当時見た格差社会は改善されているようには思えませんでした。 自分はバンコクで何不自由なく生活できている一方、生活苦で住む家さえなく路上生活を余儀なくされている方は探さなくても目に飛び込んでくるのが日常。

そんな折、ボーダレス・ジャパンに勤めている知人がSNSでシェアしたマーケター募集の投稿ポスト。そこで初めてボーダレス・ジャパンという存在を知り、その勢いのまま田口社長の著書「9割の社会問題はビジネスで解決できる」を一夜で読破。
10年前に感じた、貧困問題や格差・差別社会の解決に関わりたいという想いを叶えるチャンスは今しかないと思い、応募。2021年10月よりスタートアップスタジオにジョイン。

2021年12月現在、すでに新規事業立ち上げや複数の既存事業サポートに携わらせていただいており、目まぐるしい毎日を過ごしておりますが、世界の社会問題解決の一助になれるこの仕事は、やりがいや生きがいに溢れており、非常に充実しています。

「この社会が今よりもさらによくなり、未来社会に貢献したい」という綺麗事を恥ずかしげも無く言い合えるボーダレス・ジャパンという集団で、これからもいろいろ取り組んでいきたいと思います。

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。