座右の銘

日日是好日

なぜこの仕事をするか

「一生のどの瞬間もその人らしく生きる、をサポートする」のがテーマ。 近頃は、日本人が等身大の自信を取り戻すにはどうしたらいいか、考え学びながらこつこつアプローチしています。 ボーダレスの社会起業家と社会のさまざまな接点をつくり、社会問題の解決を加速させていきたいです

わたしの履歴書

1980年名古屋市生まれ。小学校教師の両親と4才上の兄のもとに生まれ、生後8か月から保育園に入りました。そのおかげなのか、人見知りしない性格です。

私の通った保育園は色んな遊具で遊べるように、スカートが禁止されていました。兄のおさがりの短パンをはき、ショートヘアで活発に過ごしていたので、男の子に間違われることばかり。
ただ当時から、庇護の対象になるようなステレオタイプな女子像に違和感を持っていたように思います。かわいい女性だけじゃなく、かっこいい女性がいてもいいじゃん!って。両親には私にはかわいいではなくかっこいいと言ってほしいとお願いするほどでした。
当時はそんな自分を「男の子っぽい」と形容されることに、人知れず傷ついていました。

高校までは名古屋で過ごしました。兄も両親と同じ小学校教師の道を歩みだしたことから、周囲から「小川さんも先生になるんでしょう?」と言われるようになります。
私の将来にはもっといろんな選択肢がある!との思いから、特に目的もないのに、東京の早稲田大学を受験して、両親(特に父親)の反対を押し切り上京しました。

はじめての一人暮らし。家族のことは大好きなので、家族4人で過ごす生活を一番年下である私が終わらせたことに、少し申し訳なさを感じました。
さて、東京では誰も私のことを「小川先生の娘」と呼んだりしません。自分のことを知る人がいない、つまり「一人の個性として認識される」という経験が、とても自由で嬉しかったことを覚えています。
糸の切れた風船のように興味のおもむくまま、あちこちへ顔を出し、フラフラと過ごしました。

サークル、クラス、ゼミ、その他、この時の友人たちの出会いは今につながる本当にかけがえのないものばかりです。
代表の田口一成もその一人。(ほかにはAnrealage代表の森永邦彦くんや武藤将也くんなどなど。)
当時から「世界の貧困を解決するんだ」とキラキラした目で語り行動する姿をまぶしく思いました。私にはこれといった目的がないからです。
ぼやぼやしている間に氷河期気味だった就職活動にも乗り遅れ、大学院に進学します。

人よりも多めなモラトリアム期間を過ごす中で、働くことについて遅ればせながら考えました。そこで紡ぎだされてきたのが「一生のどの瞬間もその人らしく生きる、をサポートする」ということでした。
どの瞬間もというのは、健康でノっているときだけでなく、病んでいたり、余命いくばくもないときも含まれます。あらゆる人のあらゆる瞬間を包み込むイメージを持って、生命保険会社に就職しました。
就職した会社は私の個性を認め、伸ばし、職務を通して様々な経験をさせてくれました。営業支援、人事(新卒採用、人事企画)、米国トレーニー、経営企画・広報・IR、そして法人営業。
フラフラぼやぼやしていた私を、なんとか社会人に育てあげてくれた会社、出会った人々には感謝しています。

会社での仕事をとおして、後輩や周りの人たちの自信のなさが気になるようになります。毎日一生懸命取り組んでいても、自分に自信が持てない人が多い。
「一生のどの瞬間もその人らしく生きる」ための鍵は、自分に対する等身大の自信を取り戻すことかもしれないと考え、新卒から14年勤務した会社を卒業しました。

40歳を目前にした1年間、無職の期間を持ちました。2度目のモラトリアム期間です。
次の40年、自分の力をどう使っていこうかを考えたとき、これからは自分より下の世代のために培ってきた力を使いたい!と思いました。
就職活動に乗り遅れたアマちゃんだった自分ですが、社会人として積み重ねてきたことには自負があります。それを今度は理想やきれいごとを実現するために使いたい。

付かず離れず2ー3年おきに、ボーダレスに来ないかと声をかけてくれていた田口君に連絡を取り、そう話しました。
「大人こそ、きれいごとを言わなきゃな!」とがっちり握手して、ボーダレスに入社することになりました。

これまでを振り返って、私の得意なことは「人の良いところを見つけて、伝えること」「チームを楽しく盛り上げること」です。
ボーダレスでもこの力を発揮して、起業家と社会の接点をたくさん作り、社会問題の解決を加速させる一助になりたいと思います。

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。