座右の銘

後悔のない選択をする

メッセージ

日本で暮らしている私たちは、とても恵まれていると思います。毎日、美味しいごはんを食べ、家のベッドで寝て、友達と会って笑い合う。家族や友人と楽しい時間を過ごす。それって、とっても普通で、平凡で、当たり前なことかもしれないけれど、毎日が奇跡的だと思うんです。当たり前の毎日を続けるためにも、防災・減災を広めて、自分のためだけではなく、「大切な人を守るための準備」として教訓を実行に移す人を増やしたいです。

わたしの履歴書

1994年11月、阪神淡路大震災の2か月前に神戸で生まれ、それから22年間、陽気な家族・親戚に囲まれ復興とともスクスクと育ちました。
小、中、高と震災学習をし語り部の話を体育館で聞く。当時の同年代の作文を読む。毎年1月17日には全校生徒で黙祷をし、鎮魂歌である「しあわせ運べるように」を歌う。お昼ご飯はその日だけは、校舎の外で炊き出しの豚汁を食べる。それらが私に限らず神戸で生まれた子供たちにとっての毎年の恒例行事でした。
特に私が生まれた94年、その次の95年生まれは、自分の年齢=震災からの年月ということで、5歳になれば震災から5年。10歳になれば10年目だね、と言われ、記憶はないものの、阪神淡路大震災に対し、切っては切れないものを感じているのではないかと思います。
ですが、実はというと私自身防災や減災、阪神淡路大震災に向き合うようになったのは、つい最近のことです。

小さい頃、家ではオフザケたっぷりじゃじゃ馬娘のくせに外では親が驚くほどおとなしい子供でした。年を重ねるにつれ、素をどんどん出せるようになり、友達にも恵まれた楽しい学生生活を送っていきました。
小中高と、ノンビリ楽しく過ごしていたので、母親に「正念見せなさい!」とよく怒られていたものです…。大した努力もしきれず大学受験へ。このままではヤバイ!と思い、国公立を目指し必死に勉強していたのですが、センター試験本番で過去最低点を叩き出し、そのショックから私学の前期入試も散々な結果になってしまいました。
このままでは嫌だ!と死にものぐるいで私学の後期入試を受験することを決意。倍率も高かったことから親も受かるわけないと思っていた大学になんとか合格。はじめての成功体験でした。

大学では、留学生支援団体に所属し、市役所手続きの手伝いから、京都観光の日帰りツアー企画、流しそうめんパーティーなど、企画運営の活動をずっとしていました。
毎日楽しく、ごく普通に過ごしていましたが、19歳の春に神戸へ友達と出かけた際、10年以上ぶりに見たものに衝撃を受けました。
それが、元町大丸百貨店の煉瓦に寄せられた、震災当時書かれたメッセージです。
私は、幼い頃それを見た記憶が鮮明に残っていたのですが、久しぶりに見た煉瓦のメッセージは、10年前よりもとても薄く、消えかけているものまでありました。
私はそのときはじめて風化を目の当たりにしたような気がします。確かに神戸の街は復興し、被災地の面影はありません。ですが、この煉瓦のメッセージは消えていいものではないし、阪神淡路大震災の記憶も消えてはいけない!と、ただそう強く思いました。
それから改めて1.17について知ろうと思い、行ったところが「人と防災未来センター」という資料館です。
そこでは当時の再現映像や、作文、遺留品など多く展示されています。東日本大震災の記事も多く展示されていたのですが、それと同様に大きく取り上げられていたものが南海トラフ大震災です。
想定最悪死者数30万人、という数字を見たとき、自称:想像力豊かなビビりである私は、とてつもない恐怖を抱きました。
すると、すぐ近くにいたボランティアのおばあちゃんが、沢山の教訓を教えてくださり、それらの教訓は過去に被災したからこそ学んだものばかりでした。
「災害時、自分の居場所を知らせるために笛を持っておいたらいいよ!」というアドバイスに、単純な私は、
「笛!大事だから持たなきゃ!!!」
ということで、さっそく100円ショップで購入。同時にお節介な気持ちも発生し、「笛…友達も持って欲しいなあ…防災みんなしてほしいなあ」と思いましたが、すぐに「可愛くないし、こんなん身に付けて欲しいとかよう言わへんなあ。」というのが、私の率直な感想でした。
でも私は友達に防災グッズを身に付けて欲しかったので
「身に付けてもらうためには、笛っぽくない可愛い笛!ないなら作りたい!!!」
と切り替え、わたしの防災・減災活動はスタートしました。

当初同い年の数人で、イベントを企画しよう!とクラウドファンディングを実施しました。もともと目立つことが苦手でどちらかと言うとSNSも発信したくない派の私でしたが、告知をしないでどうする!と思い、意を決して
①防災の活動をすること
②クラウドファンディングを実施するので協力してほしいということ
をFacebookで投稿しました。
目標金額は80万円で、熱意たっぷりの記事を書きました。いいね!も当時最高数(今見るとそんなに多くない)をつけてもらい、ヨシ!!!頑張るぞ!!!と思っていたのですが…
結果:支援者1名、3000円。
80万円を目標にしていたのに、3000円。頑張って振り絞って告知をしたのに、支援者1名。
このとき支援してくださった1名の方には本当に感謝しています。ありがとうございました。
でも私、とっっても恥ずかしかったです。
出しゃばってしまったかな。とか間違っていたのかな。と悩み、落ち込み、しばらく塞ぎ込んだ日が続きました。恥ずかしいから、もう無かったことにして辞めてしまおうか。とさえ思っていたとき、地震が起こる夢を見ました。
その夢は、目覚めるまで夢だと気づかないほど現実に忠実な夢でした。大学で、いつものメンバーでお昼ご飯。笑いながら食べていたら突然の揺れ。目の前で下敷きになる友達。身動きできない自分。泣いて叫んで、もう嫌だ!と思ってハッとすると、自分の家のリビングにいました。目が覚めたら泣いていました。揺れた感覚も残っていました。起きてしばらくして、さっきの出来事は夢だとわかったとき、安心してまた泣きました。
同時に、これは現実に起こってもおかしくない夢だと改めて感じ、少し恥をかいたくらいで、やろうと思ったことを諦めて、もし地震が起こってしまったら一生後悔する!!!ここで辞めたくない!!!
このままでは嫌だ!!!!!
と心の底から強く思いました。

そこから心機一転やり直し、大学の助成金や学外のビジネスプランコンテストに応募し、資金を集め、面識のない社会人にも会いに行き、工場を紹介していただき、一年越しにオリジナルのストラップ型のゲンサイ笛が完成しました。沢山の方のご厚意や協力のもと5000個のストラップが完成し、チャリティ販売を約1年間行っていきました。

なぜ防災・減災をそこまでして広めたいのか?という根源は、過去から学んだ教訓を行動に移せば、未来の被害が確実に減るからです。
私は幼いころから、祖母兄弟と接する機会が多く、とてもよく可愛がってもらいました。大叔父・叔母や祖母・祖父が大好きでしたが、比較的高齢だったため、幼い頃から大好きな人を失う機会を多く経験してきた気がします。特に一緒に暮らしていた祖母の急死は、人生の中で一番辛く悲しい出来事でした。
大好きな人を一人失うだけでもこんなに辛いのに、災害時は同時多発的に誰かの大切な人が亡くなってしまいます。でも防災をしていれば、それは無くなるかもしれないし、被害は小さくなるかもしれません。
友達受け売りの、「友達の友達まで救う。」という大好きな言葉があります。
私は、大切な友達を救いたいです。でも友達にもそれぞれに大切な友達がいます。なら自分は、友達が悲しまないためにも、その友達の友達まで救いたい。そうやって続いていけば、結局は全員を救いたいということになります。欲張りです(笑)
でも、本気で防災・減災が浸透し、日本に住む人々にとってアタリマエになれば、まったく不可能ではないと信じています。
地震大国日本では、ほんの数分の揺れで、5分前までの日常とは違う景色が目の前に広がります。一寸先は闇だと言う言葉がありますが、本当に、いつ真っ暗な現実が誰に起こってもおかしくないのが日本が向き合わなければいけない現実です。
私は、今のこの幸せな当たり前を継続させたい。もし、災害が起こってしまっても、準備(防災、減災)さえしていれば、真っ暗闇を、白に近いグレーにできるかもしれません。真っ白は難しくても、私は限りなく白に近いグレーを目指します。被災することによって、親を失ってしまう子どもや家財を失い突発的貧困に陥ってしまう人、重度な精神的ストレスを抱えてしまう人など、災害は様々な社会問題を起こす引き金になります。防げる範囲で被害を出したくない!そして、防災減災を通じて、誰もが大切な人を守れるしくみをボーダレスでぜひ作りたいです。

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。