座右の銘
他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし
なぜこの仕事をするか
各社、各メンバーがみんなそれぞれ社会問題と向き合って、事業を進め、ソーシャルインパクトを生み出す。そんなみんなの姿を見て私は何ができるんだろうと思ったとき、そんなみんなを裏で支えることなんじゃないかなと思ってます。
わたしの履歴書
1975年神奈川の中でも特に地味な街に生まれ、仕事でいない母の代わりに叔父叔母夫婦に育ててもらい、そこで兄(いとこ)2人に遊んでもらい、画家だった叔父のアトリエで好きなことをしているうちに今の私ができあがりです。
当時の夢は「男の子」になることでした。
小学生になったころ、男の子にはなれないんだと気づく。とはいえ公立の小・中学校では女子に馴染めず、女子らしいことに興味もなく、でも女子特有の付き合い方で何となく乗り越えたり。
そして高校に入る頃には「この閉鎖的な日本から出よう!」と思い大学留学を決意。
とにかく英語を話せる環境を探して、つくって、話してた高校時代。でも肝心の英語の成績はいつも中の下。文法とコミュニケーション力は別のものだと実感。
日本の大学に行くことは全く考えておらず(単に入試が嫌だった)、高校卒業後はアメリカの大学に入学。そこで陶芸作家でもある教授と出会い、4年間は陶芸とアートの日々。自分の作品をギャラリーでおいて貰えるようになった喜びも束の間「一つの作品を売っても、この収入じゃこの先わたし生きていけないんじゃ!」と思い、そのままフィラデルフィア市内の大学院に進学。元々美術館や博物館での仕事に就きたく、様々な団体でボランティアやインターンを経験し、NPOマネジメント専攻で卒業。
帰国したものの、当時日本でのNPOと言えば各種支援団体が多く、思っていたようなアート関連のNPOの仕事は見つからず。そこで私の経験を一番生かせそうな留学カウンセラーの職に就く(安易)。
しばらく働いた頃、やっぱりアートの世界に携わりたい…という思いが募り、TVや映画、雑誌小道具用のインテリア/キッチン雑貨のレンタルショップに転職。お客様はすべてプロのカメラマンやスタイリストさんという環境で、かなりのセンスを求められ…なんて刺激的!と思ってたら妊娠し、退職。
都内区役所で英語通訳のアルバイトをして、社会とのつながりを絶たずに子育て。
日本の過酷な保育園戦争に勝利し、フルタイムとして社会復帰を果たす。英語講師派遣の会社でネイティブの先生や学校関係者の方たちとお仕事をし、時には休んだ先生の代わりに幼稚園で歌って踊れる英語の先生をしてみたり。
そんな時、ボーダレスハウスのお仕事の話が舞い込み「人と関わる」仕事を天職だと思い始めたのもあってボーダレス・ジャパンに入社。色んなことがありまして、現在はボーダレスジャパングループの労務に。
思えば人と関わる仕事しかしてこなかったな、と。
それはきっと私が「人」に対して興味があるから。好きな人も苦手な人も色んな人がいて、その誰にも興味があって。
私は起業家としての野望は持ち合わせていませんが、「目の前の人が幸せであるように。笑顔になれるように。」その気持ちは結構強く。もしかしたら、それが巡り巡って社会問題解決につながるといいなと思っています。
特に取柄があるわけでもスキルがあるわけでもない私ですが、メンバーのことを想う気持ちはかなり強めです。