座右の銘

人から愛されたくば愛せよ

なぜこの仕事をするか

ろう者と健聴者の間にある壁を壊す。変わるのを待つだけじゃ何も変わらない、自分が変える人になったほうが早いと思ったからです。少しでもそれぞれの世界が歩み寄り、自分が自分らしく生きられる社会にしていきたい。

わたしの履歴書

1995年6月、ろう者の両親の元からろう者として生まれました。後に生まれる弟もろう者であり、家族全員が耳の聞こえないデフファミリー。

「なに?」
「なに?」
小さい頃の私は常に「なに?」を連発する子どもだったように記憶しています。 親の話を見て、大人の会話に「なに?」と突っ込んだり、テレビを見て初めて見聞きしたりすることに対して「なに?なんで?」と聞いたりしていました。素晴らしいことに私の親はその「なに?」と「なんで?」を大切に扱ってくれました。「子供の知るような話じゃない」と一蹴することもせず、私が理解するまでお話をしてくれました。

「月はなぜ太陽と一緒にのぼらないの?」
のような大人が困る質問ばかりを投げかける子供でした。(笑)

そして家族とのコミュニケーションはもっぱら手話。父はいろんな世界を手話で魅せてくれました。母も日本語力を向上させるのと広い世界を知ってほしいということで絵本読み聞かせをしたり、私からの質問に全て答えてくれたりしました。それが源となり、今の私があるのだと思います。

ですが、デフファミリーを取り巻く環境は今と比べて昔のほうが厳しく、親が聞こえないだけで「かわいそう」と思われることはしばしば。「発音が下手なのも親のせい」と言われるのも。でもそれはあまり気にすることはせず、生きてきました。私にとっては私の家族は「普通の家族」と同じなのですから……。言語が手話であることだけが違う点だと思って生きてきました。

手話の世界で生きてきた私は手話の世界で生きる人たちのことを伝えたい、相互理解のために努めたいと思うようになります。

編集者を目指した中学時代、ジャーナリストを目指した高校時代。

何かを伝える人になりたかった青春時代。

ろう学校の高等部の文化祭ではメガホンを取り、映画を撮影して上映しました。巷に溢れる障害者理解を訴えるコンセプトの映画を撮りたくない一心で、エンターテインメントに富んだスポコン映画を制作。私たちはそれまでの文化祭で上映されていた障害理解を訴えるだけの作品に飽き飽きしていました。野球を通していままで独りぼっちだった天才ピッチャーが仲間を得るサクセスストーリーで45分にも及ぶ長編作品でした。

完成した映画を見て涙するひともいれば、映画撮影を通して同級生たちの障害受容や意識も変わり、私の意識も変わりました。映画撮影は2週間という短期間でしたが、その間に起こった数々の出来事はとても大きい影響をそれぞれの同級生に及ぼしたと思います。

そこから私は「ひとの人生を変えるようなきっかけを与える人になりたい」と考えるようになります。

そして進学した大学ではジャーナリズムを学ぶ一方、いろんな人と付き合い自分の価値観を広げることが出来ました。

大学一年生の時から参加していた、ろう学生の権利を守る全日本ろう学生懇談会での活動は良くも悪くもいろんな先輩が居り、それぞれの持つ考え方のガチンコバトルを垣間見ました。
「ろうと難聴の違いは?」
「手話を使うことを否定するのはなぜ?」
のような答えのない難しいテーマでした。かく言う私もガチンコバトルに参加し、自分の中の考えを育てることが出来ました。今はその経験が活き、どこに行ってもぶれない自分を保てるようになったと思います。

生まれて初めてろう者のいない健常者の中で過ごす大学生活では、楽しいことばかりではなく苦しい体験も多かったのですが、そこで私はうまくコミュニケーションをとることを学びました。

大学の時はいろんなバイトを行いましたがその中でも1番初めに始めて、最後まで長く続いたのはマクドナルドでした。うちのマクドナルドは外国人の多いところだったので、いつも一緒に働くのは同時期に入ったベトナム人の女の子でした。ハノイ出身だったのにホーチミンに間違えて行ってしまい、その女の子を悲しませたことも今となっては懐かしい思い出の一つです。

その女の子がきっかけでベトナムに初めて訪れるのですがそこではじめて東南アジアのろう者の生活を目の当たりにします。

「働きたくても働けない」
この言葉の意味を深く理解することができた瞬間でした。

実は高校生の時にJETROで働いていらっしゃる森壮也先生のお話を聞く機会がありました。「途上国に住む障害者を取り巻く現状」というテーマで講演+ディスカッション→フィードバックをいただいたのですが、その時は日本にいる私たちに何ができるのか?を軸においてディスカッションをしました。その時は難しく感じたのですが、どこか遠いところで起こっていることなのだという気持ちもあってか、そこまで強く私の印象に残っていませんでした。

しかし、そこで見聞きしたことが今私の目の前にいるベトナムのろう者にも同じことが起こっている。ぐっと問題が近づいてきたような感じになりました。ベトナム観光中に毎日一緒に回ってくださったろう者の方々はとても明るく私にベトナム手話やベトナムでの障碍者を取り巻く環境を熱く語ってくださいました。
・障害者年金の受給資格は重度の障害者に限定されているので目で見てわからないろう者は重度障害者のふりをして年金受給資格を得ることもある ・運転免許の取得が許されていない など…。

ベトナムのろう者は私のことをベトナム人と変わらず接してくださいました。異なる手話言語を覚えていくうちに明らかになるベトナムのろう者を取り巻く社会問題を解決したい!一緒に動きたい!と強く思うようになります。彼らろう者には能力がある。議論力も、行動力も周りに引けを取らないくらいに。周りと違うのは、ただ耳が聞こえないことと、言語として手話を使うところのみ。

ろう者が自立できるような給料を得て、生きがいを感じながら働けるような場を作ろうと思い、就職活動を始めました。はじめはベトナムで働こうと動いたのですがどこも「新卒は市場価値のない人とみなされているから3年後に来てほしい」というスタンスで断念。

日本での障害者枠の就職活動を始めますが、ここでも私は壁にぶつかります。ろう者は営業職に就けない。
自分のやりたい仕事に挑戦する資格を得られるかどうかもわからない環境で働いても、ベトナムでの夢が遠くなるような気がしてこのままあきらめるのかな…というときにボーダレスを見つけました。そして私はボーダレスの扉をたたき、今ここにいます。

※入社時の内容のため所属が異なる場合があります。