座右の銘
本音で生きる
なぜこの仕事をするか
働きたいのに働けないことで、社会と繋がれずに苦しむ人を1人でも少なくするため。
わたしの履歴書
1999年、神奈川県横浜市で誕生。幼少期はダンスとピアノの習い事に没頭していました。小学5年生の時に父の起業失敗を機に両親が離婚し、ずっと専業主婦だった母がパートを始め、以来女手一つで姉と妹と私の3人を育ててくれました。
毎日ボロボロになって仕事から帰ってくる母の頑張りに応えたくて、中学時代は勉強と部活に必死に取り組みました。もともとの負けず嫌いな性格もあって、「私が頑張って良い大学・会社に入り、この家族みんなで貧困から抜け出す!」という上昇志向に燃えていました。
高校では、「個性化コース」に入学。文字通り個性が強い同級生が多く、「音楽で生きていく」「海外で働く」など明確な夢を持った彼らに対して、たくさんお金を稼ぐことしか将来を考えられない自分にコンプレックスを抱いた時期もありました。
結局夢が見つからないまま大学受験。不完全燃焼な結果のまま入学し、モヤモヤしながら熱中できるものを探していました。そんな時たまたま購買で見つけた雑誌で「国際協力」という仕事があることを知り、直感で「これだ!」と思いました。
冷静に振り返ってみれば、大学に入学できたこと自体が母の無条件の応援、そして家族の他に金銭的に応援してくれる大人がいたという「運」のおかげ。この幸運を、これ以上自分と家族の「上昇」のために使うのではなく、困っている人のために使えたらどんなに幸せだろうと胸が熱くなりました。
やっと見つかった将来の夢を実現するため、2年の夏から国際開発学と英語を学ぶためイギリスの大学に交換留学しました。初めての一人暮らし&海外長期滞在。慣れないうちは少ししんどかったです。ちょうどその頃に授業で扱われたのが難民問題でした。
「留学生として望んでロンドンに来た私でさえしんどいのに、望まずに日本にやってきた難民の人たちって、どんな気持ちで暮らしているのだろう‥」と想像し、帰国したら彼らが生きやすい日本社会を創る活動をしようと決めました。
帰国後すぐに難民問題に取り組むNPOで活動を始め、実際の難民申請者に出会いました。就労許可を持たない中東出身のNさんは、仕事が出来ないためひたすら家に籠るか近所を散歩する日々を過ごしていました。心がどんどんやつれていくけれど、どこの団体も手一杯でメンタルケアまで手が及んでいない状態でした。
働きたいのに働けない。社会との繋がりが絶たれ、先の見えない不安に襲われ、自分の存在価値さえ見失っていく。それも、言葉の通じない異国の地で。娘さんと同い年だと言う私に涙を流しながら話をしてくれるNさんを前に、この人が何故こんなにも苦しまなきゃいけないのか、と怒りと悲しさが入り混じりました。
「難民問題の解決は、正解のない社会実験。色々な解決策をみんなで試している状態がベスト」という、先を行く先輩方の言葉が後押しとなり、自分も起業という手段でこの問題の解決に貢献したいと思いました。 父の失敗を見ていたので初めは起業に対して抵抗感がありましたが、ボーダレスの環境を知り、ここなら失敗して生活が崩壊するという心配なく挑戦できると思い入社、現在に至ります。