
日曜日の朝、9時45分。
渋谷駅から少し離れたところにあるその映画館は、休日の朝だというのに、すでにたくさんの人で賑わっていた。
150席ほどある座席はほぼ埋まり、小学5年生くらいの男の子から6、70代の老夫婦まで、様々な年代の人が画面を見つめている。
自分は何者なのか
昨日、ボーダレスハウスのメンバーに教えてもらった「蒼のシンフォニー」をみた。
茨城県の朝鮮学校に通う高校生を取材したドキュメンタリー映画だ。
在日朝鮮人と呼ばれる彼らは、スマホを片手に友達と喋り、カラオケで仲良く歌い、日本にいる他の高校生と何ら変わりない様子に見える。
しかし、日本で生まれ育った彼らにとっての祖国は、海の向こう側―朝鮮なのだ。
「自分はいったい何者なのか」
私だったら当然のごとく「日本人」以外の回答を考えたことがないその問いに、彼らはずっと向き合っている。
映画の中の大半を占めるのが、高校3年生の彼らが「北朝鮮」を訪問するシーンだ。
私がそこでみた「北朝鮮」は、少なくとも今までテレビや新聞で見てきたものとは違っていた。
日本からやってきた若者の手を取って温かく迎え入れ言葉を交わす姿。
自分が今まで育ててきたフィルターは、一方的なものでしかないことを自覚した。
「人のために」と夢を語る
拉致問題などで祖国が日本中の話題になるたびに、彼らは朝鮮学校を取り囲む見ず知らずの大人から拡声器で「帰れ」と叫ばれる。
災害が起これば「在日朝鮮人のせいだ」と何の根拠もない暴言を浴びせられる。
彼ら自身が何かをしたわけではないのに。
それでも彼らは誰を恨むでもなく、育ててくれた人への感謝を述べ、「人のために◯◯になりたい」と夢を語っていたのが、一番印象に残っている。
「差別してない」傍観者
映画をみている間、隣の席の女性は、その高校生たちの言葉に何度も大きく頷きながら、時には涙を流しながら、画面をみつめていた。
その人もまた、誰かが放った心ない言葉に傷ついたことがあったのかもしれない。
私自身は今まで「自分は差別なんてしないし、偏見ももっていない」と思ってきた。
でもそれは、「自分は加害者でも被害者でもない」と傍観者として線引きをしていただけだったのだ。
例え自分自身に本当に差別意識がないとしても、周りを見渡せば、そうじゃない。
◯◯人だからという理由で、人を簡単に傷つける人がいる。
◯◯人だからという理由で、当たり前の権利を得られない人がいる。
それを変えることができなければ、現状は何も変わらないのだ。
「知る」だけで全部解決するほど甘くはないし、今回こうやって知れたからこそ。
どこで生まれた人だろうと、国籍が何だろうと、困っていたら「お互い様」と支え合えるような社会をつくるために、動かなきゃいけない。