
【がんみち】という言葉を聞いたことがあるだろうか。
私ががんみちを知ったのは今から17年ほど前のこと。母親にほぼ毎日「がんみち行ってきます。お留守番よろしくっ!」と言われていたので、なんかもう、そのインパクトあるフレーズが耳から離れなくて、なんと今になっても覚えているのである。
"がんみち"、それは"雁道"と書く名古屋の地名の一つである。
実は私も先程まで完全に"がんみち商店街"というフレーズでしか認識していなかったので、地名であったことを知ってかなり驚いている。
母が足しげく通っていたのは【がんみち商店街】だった。母は商店街が好きで、年々閉まっていく商店街のシャッターにかなり落胆していた。
とはいえ、点々と変わる居住先でも必ず商店街を見つけてきては通っていた。そんな母はインドのマーケットを前にして最もその輝きを放っていた。スーパーもあるのに、なぜ綺麗とはいえないマーケットに楽しそうに行くのか当時は甚だ疑問だった。私は順調に現代っ子になっていたので、帰国してからは日本の綺麗なスーパーや便利なコンビニをフル活用しながら、相も変わらず商店街押しの母を不思議に思っていた。
●インドのニューデリー駅付近のマーケット
ところが人間とは不思議なもので、25歳の今『商店街』に目覚めてしまったのである。家から徒歩35秒のところに商店街があるので、フラフラと食料を求めて立ち寄った魚屋さんがきっかけだった。その店のおっちゃんが気さくで、「久しぶりじゃの~元気にしとったか?ほにゃらら…」と毎回必ず話しかけてくれる。
実は後半は方言によってあまり聞き取れませんでした。とは言い出せず、毎度あいまいな笑顔で応えている。他のお店の人も同じように話しかけてくれたり、おまけをくれたりする。
「顔が見えるから安心だし、何だか楽しいでしょ。」と商店街で呟いていた母を思い出して、こういうことだったのか!と実感した。スーパーやコンビニではあまり経験しない、人と人との触れ合いに、不覚にもかなりホッコリして病みつきになってしまっているのだ。
●箱崎商店街の美味しいパン屋さん。「写真を撮ってもいいですか?」と聞いたら「あんた、おばちゃんは映ると人が殺到するからダメよ~」だって。
商店街の形成過程には『商店街という空間を通して、新しい公共性の基盤をつくりあげる試みがあった』と、社会学者の新雅史は著書「商店街はなぜ滅びるのか(光文社新書)」の中で述べている。昭和15年代頃から生活インフラの場として、【繁華街】と区別して【地元商店街】は創られてきた。だから地域住民との結びつきが強かったのである。
そんな商店街も、後継者不足・コンビニの台頭・ネット市場拡大等の時代の波を受け、店を閉めざるを得ないところが増加している。公共性が強いからこそ、商店街の減少は、子ども達が地域の大人たちに見守られているという安心感を得る場所の減少にも繋がる。
●公共スペースがある博多の台所!柳橋商店街
また、宮台真司は著書「14歳からの社会学(ちくま文庫)」の中で、映画「Always三丁目の夕日(2005)」や、それにちなんだ「台場一丁目商店街」が創られるなどの昭和30年代ブームがおきた背景として、”『公的(=みんな)』がイメージしずらくなった時代を生きる私たちの目に、『みんな』が見えた昭和30年代の光景が輝いて見えるからだ”と述べている。
商店街は対面式で店の人と言葉を交わし、大体お金も手渡しである。そして専門小売店の集合体なので、色々な店を周る中で必然的に同じ店の人たちと触れ合う機会が増える。確かに、誰から誰までが自分にとっての『みんな』なのか、という公的意識のイメージが日常の中で身に付きやすい場だと感じる。人間味で溢れているのだ。
●地域の子ども達が集まっていた下大利商店街のハロウィン祭り
けれどシャッター商店街が増えているんだよなぁ…と気づけば母とまったく同じ悲しみを抱いていたら、新しい形で地域コミュニティの形成に関わり始めている商店の姿を目の当たりにした。
例えばアートギャラリーをしていたり…
■箱崎商店街にあるSPITALの箱崎店
おしゃれカフェをしていたり…
■manu coffee柳橋店
商店街でゼミを開いていたり…
■岡山県にある表町商店街
うーむ。奥深き商店街!
時代はどんどん移り変わっていく。確かに店を閉める商店が増えてきているが、その一方で新しく始まる商店もある。
多様化する時代の中で、昔と今が融合した新しい商店街の形が生まれつつあることにワクワクを隠せない。次はどこの商店街に行こうか…。