
こんにちは。この4月から起業家コースで入社した原です。
私は神戸市外国語大学を卒業後、インド・ムンバイの大学院でソーシャルワークの修士号を取り、この春に帰国しました。
27歳新卒の私が、なぜ社会起業家になるという道を選んだか、お話しします。
優等生だった私、高卒でフリーターになる
遡ること約10年前、望めば推薦でいい国立大学に入れる成績も課外活動成果もあった高校生の私は、カナダの大学に進学しようと思って準備を進めていました。しかし経済的な面で断念せざるを得ず、とりあえず資金を貯めるため地元の温泉宿でバイトを始めました。
同級生たちが大学でキャンパスライフを楽しむ中、自分は朝から晩までお皿を洗っている。生まれて初めて感じた、強烈な劣等感と焦燥感。
そんな中、スタディーツアーで訪れたインドネシアで、アジアの雰囲気とあたたかい人々にふれ、学費の安いアジアに留学することを考えるように。英語が通じて教育レベルもそこそこ高いインドで、一旦ヒンディー語留学に行き、うまくいけばそのまま現地の大学に進学しようと思って旅立ちました。
インドネシアの子どもと
留学1ヶ月目で、生死をさまよう
10ヶ月間のヒンディー語留学の1ヶ月目で、デング熱にかかり1週間入院しました。輸血が必要かもしれないとまで医師に言われた時は、生まれて初めて「死」が身近に感じられ、「まだ死んでも死にきれない。神様、60までは生きて孫に囲まれて死ねるようにお願いします」と強く願いました。
なんとか輸血はせず快方に向かい、無事退院。その後心配する親を説得して留学を続けました。しかし語学コースの後は日本に戻るようにお願いされ、帰国しました。
21歳で大学入学
インドから帰国して、しばらくは燃え尽きて抜け殻だった私ですが、やっぱりどうしてもインドに戻りたい、と思いインド就職について調べました。就労ビザを取るには、4年制大学を卒業していた方がいいとエージェントに言われ、一念発起して神戸市外国語大学を受験、合格。
インドでの日々がまるで嘘だったかのように、日本での大学生活は平和で、1年目はつまらないと感じる自分もいました。「なんでここにいるんだろう」、そう思いながら、バイトでお金を貯めてはインドに戻れる長期休暇を指折り数える日々。
2年目からは、住めば都で神戸での生活も悪くないと思えるようになり、今はここで腰をすえて頑張ろうという気になれました。長期休暇はやはりインドに戻りましたが、以前から関心のあった児童労働やストリートチルドレンを支援する現地NGOでインターンをするように。
農村から騙されて都会へ連れてこられ、強制的に働かされる子ども達や、誰にも甘えることができない大人のような瞳をして物を売る子どもたちの存在を知り、何もできない自分の無力さを痛感し、彼らのために「何かできる」人間になるため、現地の大学院で社会福祉について学ぶことを決めました。
インドの大学院、苦難の2年間
入学試験こそうまくいったものの、大学院での勉強や研究活動はハードでした。日本では毎日23時就寝だった私ですが、毎晩2時まで勉強しました。
土日も部屋にこもり、山のような課題をひとつひとつこなす日々。
学業のプレッシャー、現地語を話し現地の状況を理解するインド人と自分を比べての劣等感、睡眠不足などが重なり、「全て投げ出して日本に帰りたい」と数え切れないくらい思いました。
ストレスと乱れた生活リズムで髪の毛がごっそり抜けた時期もありました。
しかし、もうだめだと思う度に、インドの子どもたちの笑顔がまぶたの裏にうかびました。彼らのためならあともう少しがんばれる、そう思って辛い時期を越えました。
2年目で行ったスラムでの活動では、子どもを学校に通わせるよう親に交渉したり、皮膚病で苦しむ子どもたちのために医療キャンプを企画したり、つたないヒンディー語で1人スラム街を歩き回りました。
スラムの子どもたちとのワークショップ
そういった活動をする中で、私は国連などの大きな組織に入るより、草の根の立場で住民とともに、よりよい社会の実現に向けて働きたいと改めて思うように。
起業を決意
持続可能な方法で住民の生計を向上し、子どもが働かなくていい社会をつくるためには、社会起業という方法がいいのではと思い、ソーシャルビジネスについて調べ始めた時にボーダレスジャパンの存在を知りました。夢中になってウェブサイト、ブログを読みました。
ボーダレスグループの起業家たちは、みんな「自分が心からやりたいことをやっている」ことが写真越しにもわかるように、キラキラしていました。
私もボーダレスで、インドの児童労働問題に取り組む事業を立ち上げようと決意し、門を叩きました。
幸いなことにいただいたこのチャンスを最大限に活用して、1年後インドに戻り、貧困家庭に安定した雇用を生み出すビジネスを始めたいと思っています!
これからも、きっと今まで以上に逃げ出したくなるような困難や苦労が待ち受けているでしょう。しかしどんな時も、インドの子どもたちの笑顔を思って前に進み続けたいと思います。